おいしさはどのような意味で主観的か
※主観性みたいな曖昧な言葉について連想ゲームみたいにいろいろな話をしていくのはクソというかんじだけど、この記事はややそのようなところがある
この記事は心が主観的であるというときの主観性の意味ではなく、「おいしい」が主観的であるというときの主観性の意味について考える。サールのいう認識論的主観性。真偽が人 (好み、態度、観察者の評価) に依存するもの。
0. まず、そのような概念に意味があるのか
「xがおいしい」が真なのは、xがおいしいとき、そのときに限る。(本当? 他人が「xはおいしい」と言ったとき、それはそのまま引用符除去してしまうと、自分の側の感性に照らし合わせておいしいもの (あるいは真においしいもの(とは?) (端的においしいもの、というといいかもしれない)) ということになってしまいそうだけれど)
その意味論に「四角い」との違いはないのではないかという説
The Davidsonians realized that, in particular, they could just as well give a homophonic semantics for moral language too (Wiggins 1976). For instance, ‘evil’ in English applies to all and only evil things. Nothing in their philosophy of language made it problematic to give such an ostensibly out-and-out realist treatment of moral language. Nor did it require any further semantic analysis of moral terms; they could be treated as unanalysable. Thus Davidsonian philosophy of language found itself in the unaccustomed role of providing a protective environment for Aristotelian moral realism. By contrast, Dummett put much heavier explanatory demands on the theory of meaning, perhaps too heavy to be satisfiable.
「おいしい」はおいしい食べ物の集合 (クラス) を外延として持つ
クラス唯名論を取るなら、「おいしい」も「四角い」も等しくクラスでしかないのではないか
(このデイヴィッドソン的意味論は道徳の語りだからうまくいくように見えるのであって、「おいしい」にはうまくいかないのでは)
念頭に置いている例: 「おいしい」「ビビッドだ」「きらびやかだ」「ジャジーだ」
(どうでもいいけど、「○○風だ」みたいな胡散臭い概念をニューラルネットで学習させると面白そう)
これは性質の存在論や述語の意味論のレベルでは主観的とされる語でも客観的とされる語でも違いがない (という極端な立場もありえる) という話で、ここでは主観的という概念に意味があるというのは自明ではないという根拠として出した。
しかし、主観性というのは存在論・意味論とはべつのレベルで生じているのだと主張する根拠にもなりえそう
たとえば、bankが銀行か土手か曖昧性なのは、意味論の問題でも存在論の問題でもない (語彙意味論を意味論というなら意味論だろうけど) 主観性・客観性の区別も、意味論の問題でも存在論の問題でもないのかもしれない。
ツッコミ: そんなことを言ったら、指標詞からくる文脈依存性もbankが銀行か土手かと同じ話として扱う、異常な意味論を考えることだって可能でしょう。
限りなく追加される ambiguous な語彙たち ($ 私_1, 私_2, 私_3, \dots) の意味を、有限な人間がどうして理解できるのか。
bankと同じに考えたとして、どうやって曖昧性を解決できるというのか。
指標詞に『安倍晋三の発話「私は安倍晋三である」が真なのは、私が安倍晋三であるとき、そのときに限る』という引用符除去的な意味論を与えたとすると、直観に反する結果になる (この文は偽ということになる)
二人が話している言語は同じではないという説明もありえる
しかし、Aさんが「ラーメンはおいしい」、Bさんが「ラーメンはおいしくない」と言っているとき、2人は相手の言葉の意味が分からないことはない。
仮に外延的にはそれで良かったとしても、内包的文脈でも扱えるようにしなければいけないというのがある。
「みんなおいしいものを食べたいと思っている」など。
では客観的とはどういうことなのか
1. 主体以外の複数の物の相互作用を説明するさいに役に立つ概念は客観的であり、そうでない概念は客観的ではない、という分析(「役に立つ」とは?)
例. 「あの人はいい人だから人助けをしたんだ」は説明になっていない
なので主観的
「アイスは美味しいから、彼らはアイスをよく食べる」は説明になっているか?
それが説明になっていないというなら、『「その物体は磁石だから、私はそれを磁石と認識した」ということは説明になっていない。磁石であることを調べるために、鉄を近づけ、引き寄せられるという現象を観測したことが私がそれを磁石と認識したことの原因であって、磁石であること自体は因果関係として持ち出してはいけない』 という議論も受け入れる必要が出てこないか
いや、これが変に見えるのは、直接的でない因果関係だからというだけでは
鉄が惹きつけられたのは磁石だからである以上、間接的にはやっぱり因果関係があり、問題がない気がしてきたayu-mushi.icon
知識の因果説なら、本当に知識がある場合は (認識が知識を意味するとして) 成り立つことになる
ある性質について、それが客観的であるとは、それが因果連関の中にあるということ、という把握のしかた (説明に役立つとか予測に役立つとか因果連関の中にあるとか微妙に同じような違うような概念を)
そのようにいったとき、そこでの因果関係とは反事実的依存関係のことなのか、それとも暗に「因果関係」という言葉を物理的因果関係に限定することによって、客観的なものに限られるというような印象を出せるから、客観性を特徴づけるうえで使えるような印象を受けているだけ (つまり循環に陥っている) なのか。
ルイスは自然的性質と因果関係を関連付けて論じていた気がする
(もっとも、ルイスだと自然的性質のほうが原始概念であって、因果関係のほうがそれによって説明されていたはず)
カッシーラー
感覚の秩序:
事物は、それらが生体に対して及ぼす効果に応じて分類され、感覚の秩序へ組み込まれる。ある事物がこの秩序内に占める位置は、生体に対してその事物が及ぼす効果を表現している。
物理的世界の秩序:
事物は、それらが互いに及ぼす効果に応じて分類され、物理的世界の秩序へ組み込まれる。事物がこの秩序内に占める位置は、それが他の諸事物と取り結ぶ相互的な関係を表現している。
(エメバラとグレッドの例のように、相互に因果関係 (?) しあう変な分類の数々からなる秩序が考えられてしまうかもしれないけど
「xが酸カリである」=「私の気分がいいかつxがアルカリ性、または私の気分が悪くかつxが酸性」
「xがカオである」=「私の気分がいいかつxが青い、または私の気分が悪くかつxが赤い」
「酸カリの液体をリトマス紙にひたすと、リトマス紙が カオ色 になる」という物同士の因果法則 (?) が成立してしまう
気分によって概念の適用基準が変わるのだが、奇跡的にも一貫した仕方で全ての概念の適用基準が変わってしまい、その間に成り立つ関係はそのまま保たれて成り立ち続けるという場合
それならまあ問題がないのでは…)
あるものを池に落としたときの水の波立ち方を表す述語というのがあったら
「池によって、また落とし方によって結果が異なることがあるので信頼のおけない尺度だ」
「P(x)」の真偽がxの内在的性質以外の要因に依存してしまうこと
2. 因果構造にうったえるのではなく、「自然的性質」という概念を原始概念として認めてしまえばよくないか そうすれば、「『Pが主観的性質である』とは、『P (評価者, 評価対象) という二項述語の形式は自然的性質だが、それをある評価者aについて$ P_a (評価対象)と部分適用した一項述語は自然的性質にならないこと』です」というふうに分析できる。
しかし「xはおいしい」がルイスの意味における関係的性質になるとは思わないな。
ルイスは、aの完全な複製bを用意したとき、P(a)⇔P(b)になるならP(x)はxの内在的性質を表す性質と言えるとした。
しかし、もし何かがおいしいならその完全な複製もおいしいだろうし、逆も真だろう。(いや、主体の側が違う可能世界を考えたらそうではなくなってしまう…)
だから内在的性質の定義を満たしてしまう。
「xがおいしい」は「xは太陽系の惑星である」がそうであるような意味で、関係的な性質であるわけではない。
もしあるお守りに、その複製には無いような形で、(「子供の頃から身につけている」というような) 自分との関係に基づいて「良いお守りだ」と思っている場合、そこでの性質は強い意味において、関係的性質である。
しかし「おいしい」などは、そのような強い意味で関係的性質でないということは考えられる。
もし良さやおいしさ、かっこよさといった "主観的" に見えるものの度合いが、たまたま質量のような物理量と一致する価値観・感性の人がいたとすると、その人はかっこよさによって物の動きを説明することができてしまうだろう (その人にとっては自分自身以外の複数の物の相互作用を説明するさい、かっこよさが有用である) という問題
力 = かっこよさ ✕ 加速度
それは (知覚能力が高い人にとって) 見た目的に四角いものは、客観的にも四角いというのと似たことなのでは
性質について、主観的・客観的の四象限を考えて、
「主観的でも客観的でもある」
良さやおいしさ、かっこよさといった "主観的" に見えるものの度合いが、たまたま質量のような物理量と一致する価値観・感性の人の場合
「主観的であるが客観的でない」
主体以外の物と物との相互作用を理解するのには役立たないが、主体と物の相互作用を理解する際には役に立つ概念
「客観的であるが主観的でない」
上の逆
「主観的でも客観的でもない」
グルーのような、何の役にも立たない概念
グルーの場合だと、言葉によって適用基準が示されているので、運用上は問題がないけれど
別に知覚される「ビビット だ」「きらびやか だ」は世界の秩序に対応していないので主観的だけど、もし知覚が正確に (たとえば) 質量 を捉えているなら捉えられているものは客観的であるということに不満はないわけで、ここではかっこよさが価値を伴っているから変に見えるだけか
色が仮に自然の秩序に対応しているならそれは客観的だけど、実際に物理学的探究の結果そうでないとわかったので色は主観的ということになっている。
主観的な述語というのはターゲット固定問題 (戸田山和久『哲学入門』)において、ターゲットが主体の内側になってしまったようなケース? もしある生命体が善と考えるものが、ある物理量に対応していた場合、その生命体に対し善は主観的だと説得するのは、現実世界でそれを行うことよりも難しいかもしれない
「複数の人の判断 P(a) が一致するとき、それはaという物そのものに備わった特性を表している」と考えることは、ふつうにAとBの関係を考えたとき、Bの側を変えても結果が同じなら、Aの方の特性が原因になってその結果が生じているだろう、と考えるのと類比して理解できるか? (機械が壊れて、どこが壊れているのかを調べるときのように)
「あの人は、独立にたくさんの人がかっこいいと言っているので、そのことは、評価者の好みによってでなく、本人に備わった性質によってよく説明されるはず (その確率が高い) である。」(?)
「あの問題は、独立にたくさんの人が難しいと言っているので、そのことは、評価者の能力によってでなく、問題に備わった性質によってよく説明されるはず (その確率が高い) である。」(?)
現実に人間の判断が一致するとき、独立に判断していない場合も多い気する
(「独立にたくさんのひとが同じ信念Pに至ったことの、もっとも倹約的な説明は、Pが現に真であるということだ」)
aそのものについて調べたいときは、他の要因については固定するか、いろいろに変えて平均を取るかするといい
めちゃくちゃ頑張れば、私が「おいしい」と感じる (私に言及しない形で定式化された) 基準を (たとえば大量の食べ物を食べて記録をつけるというような) 探究によって知ることができ、それを使って
「xがおいしいのは、…(そこで得られた基準) である」
と定めることができる。(しかし、その基準は自然的性質には対応しない、複雑な記述であろう。究極的には、私の脳と同じくらい複雑な言語的記述を代入することによって、これは常に可能になるはず) (色であれば、もっと簡単だろう)
(それは複雑性の供給源を、私の脳から言語記述に替えたという話になる)
というかここで基準を定式化する際に使われる言語記述内の単語のそれぞれは"客観的" (それ自体「おいしい」のような語を含んでいてはならない)であることが前提にされているよね
自分がいま判断基準として従っている基準を言語化すれば客観的になるのだとすると、客観的かどうかは性質に関する形而上学的問題 (ある性質が物それ自体に内在的に備わっているか、それともその性質は関係的・依存的なのかというような) ではなく、その性質に関する判断がどのように運用 (?) されているかの問題ということになる
3. 自然的性質である、または 基準が言語化されている
単にある述語を物についての一項述語と考えたとき、その基準 (=意味?) を主体に言及しない形で容易に共有可能か (言語記述や自然が持つ秩序などによって) という話では
しかしそんなことをしていいなら、〈〜は四角形である〉のような客観的な述語にだって同じように、私特有の間違い方のパターンを言語化してしまえば、その基準によれば正しいね と言ってもいいという話になってしまうのでは
もし私が暗闇で牛を見たときに馬と見間違えるなら、私が「馬」と呼ぶものは、〈〜は馬または暗闇の牛である〉を意味していたということになるというような
つまり上の話は、どんな私の判断 P(a) もPの意味 (基準) を調整することによって常に真とみなすことができるという話 (選言問題、クワス算的な) と同じことに過ぎない
(「動物」が「人間以外の動物門の生物」を意味しているなら「人間は動物ではない」は真、
「魚」の意味を変えれば「クジラは魚である」は真というような)
まあPが主観的だというときには、Pの意味を理解した上で基準の適用自体が主体に依存するのではなく、Pの基準 (意味) を得る事自体に主体が必要なのだという風に理解できる (あるいは基準というのをそういうものとして捉えることができる)
(たとえば個々の人、時刻を固定したときには曖昧性も主観性もない一項述語$ P_{a,t}(x))が得られる。)
曖昧性と主観性はどう関係するのか
リトマス紙はどのリトマス紙でも同じように振る舞うようになっているから、原器みたいなものがなくても、それぞれを使った場合の判断が一致する
客観性が自然種のようなものと関係するとさっきは言ったけど、それはたんに自然種に属する個体がたくさんあり、どれも法則にしたがって同じ振る舞いをするからいつでも対象の関数として結果が決まるような基準として使いやすいというだけにすぎないかもしれない。
ある人の完全なクローンがたくさん居て、そのクローンがみなに配られていてそれを原器としてそれに物を認識させたときの反応として様々な概念 ($ おいしい_{JJJ規約}, $ カッコいい_{JJJ規約})を定義していくこと
inspired by
@necocen: マジで認知が歪みたくねえ 俺の認知こそがまっすぐな認知だ 認知原器なんだ リトマス紙を使った定義と人間を使った定義で扱いが変わるのも変
4. (一項述語として見たときの) 曖昧性のなさとしての客観性
〈 (〜:物体) は1.3234241511cm以上だ〉というのは別に自然的性質ではないだろうが客観的なのでは
曖昧性というか vagueness について考えると:
人間の内観には目盛りがないから客観的に見えないという面もあり、「点がいくつ見えますか」みたいなvaguenessがなく内観による (見え方についての) 答えが確定であるような質問だったらどう
(追記 : 目盛りが存在するとは要は等間隔に物が配置できるということであり、心であっても間隔同士が等間隔であるかを比較できる尺度(間隔尺度)でありさえすればいいのでは?
つまり、xとyの美味しさの差が、zとwの美味しさの差と同じであるかどうかが判断できさえすればよい。
) (この辺は精神物理学、測定理論と関係しそう)
アナログ信号だとノイズに弱い
というか、ノイズ以前に、心の中にアナログ量を持っているときに、それを別の物のアナログ量にどのように伝達するのか
もし私が痛みを感じているとき痛みの度合いに正確に比例した大きさの速さで身体を回転させることができたなら、痛みという量は vagueness なく厳密に測定可能になるだろう
phallometric
各施設に配られている人間原器クローンに phallometric な装置 (陰茎の血圧を測定する装置) を取り付けて画像等の「性的さ」を客観的に測定するようになったら嫌だな
その人間は時間的変化しないようにされていないと困る
クローンの人権が終わってる最悪の世界だ
存在論的に主観的な述語 (私は痛い) と認識論的に主観的な述語 (xはおいしい) がどちらもvagueなのは内観や感覚に目盛りがないという同じ理由から来ている
けっきょくのところ部分適用して$ P_a(x)としても時間的に感覚が変わるから述語の外延が固定されたとは必ずしも言えないことも問題の一部な気がする
vagueness にせよ隠れた引数にせよ、P(x)の真偽が対象xの一意な関数として定まらないという問題の一例として扱える
語源
プロレゴメナ: 「何かが物について真である (客観的妥当性) とは、誰もが一致しなければならないということ (普遍的妥当性)とひとしい」
All our judgments start out by being judgments of perception, and thus as valid only for us (i.e. for our subject). Later on we make them refer to an object, and mean them to be valid for all people and for ourselves at all times. A judgment’s being about an object connects with its being universally valid, and the connection runs both ways. On the one hand: if my judgment is about an object, then anyone else’s judgment about that same object should agree with mine, which is to say that mine must be universally valid. On the other hand: if a judgment of mine is universally valid, agreeing with the judgments of all others, this agreement has to be explained. The explanation must be that the judgments agree with one another because they all refer to the same object.
19 So something’s being true of an object is equivalent to its having to be the same for everyone: •objective validity and •necessary universal validity stand or fall together.
カント プロレゴメナのベネット訳, p. 27
カントがそういうこというから、客観的ということばに
外的な物について妥当である
普遍的に、どんな主体にとっても妥当である
の2つの意味が含まれてしまって、混乱の原因になっているっぽい?
objective (adj.)
1610s, originally in the philosophical sense of "considered in relation to its object" (opposite of subjective), formed on pattern of Medieval Latin objectivus, from objectum "object" (see object (n.)) + -ive. Meaning "impersonal, unbiased" is first found 1855, influenced by German objektiv. Related: Objectively.
subjective (adj.)
c. 1500, "characteristic of one who is submissive or obedient," from Late Latin subiectivus "of the subject, subjective," from subiectus "lying under, below, near bordering on," figuratively "subjected, subdued"(see subject (n.)). In early Modern English as "existing, real;" more restricted meaning "existing in the mind" (the mind as "the thinking subject") is from 1707,popularized by Kant and his contemporaries; thus, in art and literature, "personal, idiosyncratic" (1767). Related: Subjectively; subjectiveness.
強調は引用者