心はどのような意味で主観的か
(たぶん既存の議論を当たったほうがいい。)
※まとまりがない
サールの定義
1. 存在論的。心のこと。経験されるものとしてのみ存在するもの。考え、感情、痛み、くすぐったさ、かゆみ。
2. 認識論的 (意味論的?)。「おいしい」のように真偽が人 (好み、態度、観察者の評価) に依存するもの
相対化の仕方にも色々考えられる(述語の引数を増やすのか、文の真偽を相対化するのか、発話について真偽を考えるのか、信念は人と命題との間の関係ではなく人と性質との間の関係とするのか)
これは変化の問題(変化のパズル)を解決するさいに、どこに時点への相対化を入れるかについていろいろなパターンがあるのと対応
人称六次元主義 (物は空間的部分に加え、時間的部分、様相的部分、人称的部分を持つ。コーヒーはおいしい人称的部分とまずい人称的部分を持つ。)
おいしい食べ物、楽しい映画、セクシーな人物、ユーモラスな人、かわいい、かっこいい人
「おいしい」を評価者と食べ物を引数にする二項述語とすると、それは引数に評価者を含んでいるのだから、(ここで評価者を引数に含めたポイントは評価する心的態度に依存しているからなので) 心に言及しているということになり、(1)との違いが消滅しないか
ジャンルの分類など、人によって違うし、物理的事実について一致しても合意に至るとは限らないようなもの。ジャンルの分類ってその人の特定のニューロンが発火するかみたいな話な気がする (そういってしまうと存在論的な、人の心の方に帰着させてしまっているけど)。
主観は意識の科学的説明を妨げ、主観性は科学的研究がとどく範囲から意識を遠ざけるという議論がしばしばなされる。だが、一 般的にこのような議論は間違った三段論法である。
この三段論法の誤謬を明かすことで、私たちは主観性をよりよく理解することが できるようになる。三段論法がどのようになされるか:
1. 科学は定義により(主観的に対立するものとして)客観的で ある。
2. 意識は定義により(客観的に対立するものとして)主観的で ある。
3. そのため意識の科学はありえない。
この議論は誤謬を犯している。すなわち、「主観的」と「客観的」の言葉をめぐる曖昧さの誤謬である。これらの言葉はこの三段論法で混同された異なる意味をもっている。おそらく、「主観性」の、そ して「主観的」と「客観的」のもふたつの常識的な概念として、ある 命題は、感情、態度、人々の先入観から独立で真か偽か知りうるなら客観的とみなされる。
ある命題は、真が観察者から態度や感情に 関して本質的に依存しているなら、認識論的に主観的である。私は この言葉の意味 ―そして客観性と主観性のこの違いの意味 ―を 「認識論的主観」と「認識論的客観」と呼ぶ。だから「レンブラントは 1609年生まれた」という命題は、それについてどのように感じるか にかかわらず真か偽である事実の問題として知りうるため、認識論 的に客観的である。
「レンブラントはルーベンスよりよい画家である」という命題は、いうならば、それ真かどうかは趣味ないし意見の 問題であるため、認識論的に客観的ではない。それが真か偽かは 態度、好み、観察者の評価に依存している。これが客観的−主観的 区別の認識論的意味である。
しかし私が存在論的意味と呼ぶこれらの言葉の異なる意味と関連する区別がある。認識論的意味は命題に適用されるのに反し、 存在論的意味は、世界の実体のタイプの存在形式の地位を指示 する。山や氷河は「存在」の「客観的」形式をもつ。なぜならば、存在のその形式は主観によって経験されるものに依存しない。考えや感情と同様に、痛み、くすぐったさ、かゆみなどは存在の主観的形式がある。なぜならば、それらは人間や動物によって経験されるものとしてのみ存在するからである。この議論の誤謬は意識の 状態が存在論的に存在の主観的様態をもっているので、それらは 認識論的に客観的である科学によって研究できないと考ることにあった。しかしその結論は当然ではない。私のつま先の痛みは存在 論的に主観的だが、命題「JRS は今つま先が痛い」という命題は認 識論的に主観的でない。
ジョン・サール『心、言語、社会』
(引用者: 誤字を修正)
もし主観的というのが心という意味なら、心は主観的というのは、心は心だと言っているだけだ。
しかしそれは意図されたところではないだろう。
では何が意図されているか。
それは自分の心については、内省的に知識を得ることができる、ということに関係するだろう。
痛い、思う、など
(「我思うゆえに我あり」の「我思う」も自分の心についての知識だが、内省によるかは疑問があるし、「痛い」のような個別的なことについてはそれに比類する確実性があるわけではないだろう。
たまにコギト命題が内省的知識の典型例のように言う人がいるが、それは間違いだと思う。)
「主観的」という言葉で意味されているものが、他人については、共感 (相手の視点になって考えること?) によって知識を得ることをできるものと考える人もいると思われる
哲学的ゾンビについて共感によって知識を得たら間違いか?
哲学的ゾンビの一人称小説というものは間違いか? (アリスインカレイドスピアという哲学的ゾンビ (?) の一人称視点小説があるのだが) デネット『思考の技法 ――直観ポンプと77の思考術』では、哲学的ゾンビという設定と一人称小説ということには矛盾があると言っていた気がする とりあえず、哲学的ゾンビが自分で自伝一人称小説を書くことには問題がない以上、他人が一人称小説を書くこともできるだろう
まあ、共感は内観に比べて重要性は落ちるだろう。
「他人の心の知識は間接的である」とはどういう意味で間接的か?
→推論的?
自分については非推論的に痛いことが分かる。他者については推論的にしかわからない。
主観的アクセス=内観?
いずれにせよ、これは知識を得る方法に関する特徴づけである。
となると、「主観性」で表されるようなことは、自己知などの、心についての知識に関する問題でもある。
「いたがる」(痛みを感じること)と「自分が痛いと分かる」(痛みの内観)というのはどう違うか。
痛いとき「痛い」と言葉をいうなら、痛みを避けるという特定の行為を導くためだけではなく、一般的に使える。
(ときには、痛くないときにも欺くために言葉を使うこともできる。)それがつまり自分が痛いと分かるということなのではないか。(あくまで"言葉⇒分かる"であって逆はそうではないだろうけど)
痛くないのに、痛いと思ってしまう人というのは、痛みという概念を正しく理解しているかについて疑問を呈するという形でしかありえない?
痛いときにのみ、痛いと思うということが、痛いという概念を獲得する条件から言えるというような
しかし痛みが連続的に変化する場合とか、痛いのか気持ちいのか分からないなどのことはあるのでは (そのような例は、痛みに関する事実自体が不確定である例であって、自己知識が不完全である例ではないということになるのかもしれないけど)
しかし、ここでブレンターノテーゼのように、心的なものがそもそも何かについてのものである (あるいは命題的内容を持つ) ことが話を混乱させている。
「内観」というと、外的知覚のアナロジーで、自分の心に対しなんらかの感覚器官を生やして、それについて情報を得るというようなイメージを抱くが、そのような形式で自分の心についての知識が説明できるものでもない気がする。(それよりもっと志向性に依存した形で、内観が行われているかもしれない)
推論的ではないけれど、だからといって外的知覚のアナロジーで理解できるかは不明。
幻覚論法
たとえば、信念に特有の現象的な感じがあるわけではないし、言葉のように構文論的な特徴を持っているわけでもないのに、自分の信念を内観できる、というのはふしぎだ。
ニューラルネットに内観能力をもたせる
子供に他人に見える痛みの例から「痛み」という言葉を教え、それが他人に見えない場合にも一般化されるように、ニューラルネットなどがそのシステムの内的な状態(たとえば第一レイヤー第2ニューロンの重みのような?)を出力するように学習するように、訓練データを用意することは可能か。
他人に見える痛みというのは、泣いたり、傷ついたりしているのが他人に見える痛みという意味
外部にニューラルネットワークの第2レイヤー第1ニューロンから第3レイヤー第4ニューロンへの重みを観察して教師データを出すプログラムを入れて、並行して動かすとか(さっきは単一のニューロンの重みと言っていたが、それは間違い)
(第1レイヤーから第2レイヤー第1ニューロンに飛ぶ重みを0にしてバイアスを1にする。第3レイヤー第4ニューロンへのほかからくる重みを0にする。)