相対主義
「AさんにとってはPが真」
→「AさんがPを信じている」あるいは「AさんがPを信じることは正当化されている/整合的である」「Aさんが正しければP」と何が違う?
整合性や正当化を越えた真理なるものはない (ので paradigm case argument のようなもので真理は正当化や整合性などを代わりに指すことになる) とかいうことを言っているのでは
もし「お互いに接触のない社会同士が独立に同じ結論に至る」ということは、それは文化から独立したなにかを原因とするのでなくては、すごい低い確率でしかありえないだろう (それが複雑な結論であればあるほど) (ただし、その原因は人類に共通した認知バイアスかもしれないが)。
(記述的相対主義は、主体独立でないこと? に弱い証拠を与える)
Consilience
「ハエはおいしい」はハエトリグモにとっては正しいが、人間にとっては正しくない
これらは「信じている」に書き直すものではない (下の例は書き直すこともできそう)
「おいしい」は2項関係
「レーニンはハゲだ」は時点に相対的
「ぼくはトムだ」はトムにとって正しいが、ジョージにとってはただしくない
正当化に関する相対主義
"認識論的相対主義とは、「ある証拠の集まりが与えられた際にいかなる仮説・理論が正当化されるか」という問題に関しては認識主体ないし集団に相対化した答えしか与えることができないとする見解である
( cf. Boghossian(2002) )。実実際、グッドマン自身が提示した「エントレンチメント(entrenchment)」に訴える解決(Goodman(1983) ch.4)は明白に相対主義的である。さらに、多くのベイズ主義者もグッドマンの相対主義的な結論を受け入れている(Howson&Urbach(2006)。"
確率の主観的解釈
Pを、「SがPを信じるときSがどのように振る舞うか」から理解する
正確には確率の主観的解釈はそうではないかもしれないがそういう雰囲気がある
"Consider this analogy: I think of truth as Frank Ramsey thought of probability"
from "The Folly of Trying to Define Truth" by Donald Davidson
道徳的言明の指令説、表出主義
経済学における主観価値説