石川啄木という衝撃
石川啄木の歌集『一握の砂・悲しき玩具』の読書メモ。思ったよりずっと天才だった。啄木の短歌は著作権が切れているから引用は自由だ。
『悲しき玩具』になると、句読点や!マークが増えてくる。スタイルの変化が見られるのかも。
長い比喩
まず驚いたのが、短歌で比較的長い比喩を用いている気がするところ。
・よごれたる 足袋穿く時の 気味わるき 思ひに似たる 思出もあり
・いと暗き 穴に心を 吸はれゆく ごとく思ひて つかれて眠る
・何処やらむ かすかに虫の なくごとき こころ細さを 今日もおぼゆる
・長く長く 忘れし友に 会ふごとき よろこびをもて 水の音聴く
・しつとりと 水を吸ひたる海綿の 重さに似たる 心地おぼゆる
上の句すべてを使った比喩を用いている。その内容も共感性が高いと思う。
どうでもいいけど発想をパクって一句作ってみた。→寒暁に日を見つめつつ脚は手すりへかくのごとき風情のあなた
比喩ではないけど、似た感じのこれも面白いと思った。
ふるさとの 麦のかをりを 懐かしむ 女の眉に こころひかれき
故郷の麦の香りを懐かしんでるのは女で、書き手はそういう女の眉に心を惹かれている。
内面描写
上手く言えないのだけど、自分や他の方の短歌を見ていても仕草や主張、情景描写が多い印象を受ける。啄木の一部の短歌は書き手(自己?)の内面を描いたものが割とある。
胡散さんも書いてるけど(好きな歌人#64b0f08c36d0d90000864c0e)、それが虚飾なくナイフのような言葉であっても人間くさくて普遍性を帯びていると思うから凄いと思う。
・死ね死ねと 己を怒り もだしたる 心の底の 暗き むなしさ
・どんよりと くもれる空を 見てゐしに 人を殺したく なりにけるかな
・腕拱みて このごろ思ふ 大いなる 敵目の前に 躍り出でよと
・こころみに いとけなき日の 我となり 物言ひてみむ 人あれと思ふ
・叱られて わつと泣き出す 子供心 その心にも なりてみたきかな
・いつしかに 泣くといふこと 忘れたる 我泣かしむる 人のあらじか
・やまひある獣のごとき わがこころ ふるさとのこと 聞けばおとなし
・手にためし 雪の融くるが ここちよく わが寐飽きたる 心には沁む
・おとなしき 家畜のごとき 心となる、熱やや高き 日のたよりなさ。
・たんたらたら たんたらたらと 雨滴が 痛むあたまに ひびくかなしさ
最後の句とかこういうのありなのかと思わせてくれる。
「〈感情〉→〈感情〉だ」というような形も使っている。素直に面白い。
・手を打ちて 眠気の返事きくまでの そのもどかしさに似たるもどかしさ!
・火の山の火吐かずなれるその夜のさびしさよりもさびしかりけり
倒置法・体言止め
倒置法。普通の文章の順番を入れ替えることで最後に持ってくる部分(名詞や目的語など)を強調する効果があるのではないだろうか。
最後の七の部分に名詞を持ってくる。こういうやり方もあるのか!と素直に感心した。
こういう名詞を最後に持ってくるのを「体言止め」っていうらしい。知らなかったはずかしい🫣
・神有りと 言ひ張る友を 説きふせし かの路傍の 栗の樹の下
・解剖せし 蚯蚓(みみず)のいのちも かなしかり かの校庭の 木柵の下
・わが恋を はじめて友に うち明けし 夜のことなど 思ひ出づる日
・浅草の 夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来し さびしき心
目的語を最後に持ってくることもやっている。
・蘇峯(そほう)の書を 我に薦めし 友早く 校を退きぬ まづしさのため
・おどけたる 手つきをかしと 我のみは いつも笑ひき 博学の師を
述語?もやっている。
・眼を病みて 黒き眼鏡を かけし頃 その頃よ一人 泣くをおぼえし
はじめに動詞を持ってくる。
ふと思ふ ふるさとにゐて 日毎聴きし 雀の鳴くを 三年聴かざり
これもそうかな。本来の文なら下の句が上の句である方が自然な気がするけどこういう順番が確かにベストなのだと思う。
わがこころ けふもひそかに 泣かむとす 友みな己が 道をあゆめり
結局、みんなダメだったらしい。
友はみな 或日四方に 散り行きぬ その後八年 名挙げしもなし
対比
途中で気がついたが、啄木の短歌は結構対比が用いられている。→絵画的な俳句・短歌
色を対比したり、関係や時間の変化を対比的に表したり、何らかの対象と自分を対比したり色々とやっている。
こういうものを対句というらしい。
・世の中の 明るさのみを 吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり
・赤赤と 入日うつれる 河ばたの 酒場の窓の 白き顔かな
・父のごと 秋はいかめし 母のごと秋はなつかし 家持たぬ児に
・しめらへる 煙草を吸へば おほよその わが思ふことも 軽くしめれり
・白き蓮沼に 咲くごとく かなしみが 酔ひのあひだに はつきりと浮く
・夷(なだら)かに 麦の青める 丘の根の 小径に赤き 小櫛ひろへり
・たひらなる 海につかれて そむけたる 目をかきみだす 赤き帯かな
・わかれ来て 燈火小暗き 夜の汽車の 窓に弄ぶ 青き林檎よ
・ゆゑもなく 憎みし友と いつしかに 親しくなりて 秋の暮れゆく
・あらそひて いたく憎みて 別れたる 友をなつかしく 思ふ日も来ぬ
・葡萄色の 長椅子の上に 眠りたる 猫ほの白き 秋のゆふぐれ
・真白なるラムプの笠に 手をあてて 寒き夜にする 物思ひかな
・水のごと 身体をひたす かなしみに 葱の香などの まじれる夕
途中にて 乗換の電車 なくなりしに、泣かうかと思ひき。雨も降りてゐき。
・宵闇(よいやみ)や鳥まつ庭の燈籠に灯入れむ月のほのめくまでを
並列
まず名詞の並列。煙を言い換えて2回使っているところが斬新な気がする。
・青空に消えゆく煙 さびしくも消えゆく煙 われにし似るか
・酒のめば 鬼のごとくに 青かりし 大いなる顔よ かなしき顔よ
・どこやらに 杭打つ音し 大桶をころがす音し 雪ふりいでぬ
呼吸(いき)すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音!
旅を思ふ夫の心! 叱り、泣く、妻子の心! 朝の食卓!
手も足も はなればなれに あるごとき ものうき寝覚! かなしき寝覚!
引越しの 朝の足もとに 落ちてゐぬ、女の写真! 忘れゐし写真!
似たものにこういうものもある。
・かにかくに 渋民村(しぶたみむら)は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川
・戸の面には 羽子突く音す。笑ふ声す。去年の正月にかへれるごとし。
動作の並列。冒頭は啄木の有名な短歌。
・はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る
・よごれたる 煉瓦の壁に 降りて融け 降りては融くる 春の雪かな
・忘れ来し 煙草を思ふ ゆけどゆけど 山なほ遠き 雪の野の汽車
無生物への憐れみ
石川啄木には石や砂などの無生物に対してのあはれみたいなものを詠んだ短歌がある。
・いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ
・ふるさとの かの路傍の すて石よ 今年も草に 埋もれしらむ
・秋の夜の 鋼鉄の色の 大空に 火を噴く山も あれなど思ふ
アニミズム的視点
啄木には、古来の日本人に特有のアニミズム的発想がある。
・目になれし 山にはあれど 秋来れば 神や住まむと かしこみて見る
・神寂びし 七山の杉 火のごとく 染めて日入りぬ 静かなるかな
・はてもなく 砂うちつづく 戈壁(ゴビ)の野に 住みたまふ神は 秋の神かも
・神のごと 遠く姿を あらはせる 阿寒の山の 雪のあけぼの
・神多き国に生れて春秋(はるあき)の祭見るまに女(おなご)になりぬ
・月夜よしただ二柱(ふたばしら)神ありしその古(いにしえ)の静けさ思ほゆ
「あはれ」シリーズ
啄木はよく「あはれ」んでいる。冒頭に「あはれ」がくるのは印象的。
・あはれかの 男のごとき たましひよ 今は何処に 何を思ふや
・あはれかの 我の教へし 子等もまた やがてふるさとを 棄てて出づるらむ
・あはれ我が ノスタルジヤは 金のごと 心に照れり 清くしみらに
「あはれ」が2回。
森の奥 より銃声聞ゆ あはれあはれ 自ら死ぬる 音のよろしさ
中盤に「あはれ」。
・空家に入り 煙草のみたる ことありき あはれただ一人 居たきばかりに
・いつなりけむ 夢にふと聴きて うれしかりし その声もあはれ 長く聴かざり
・わが為さむ こと世に尽きて 長き日を かくしもあはれ 物を思ふか
最後に「あはれ」がくる普通のあはれ。
・人並の 才に過ぎざる わが友の 深き不平も あはれなるかな
・君に似し 姿を街に 見る時の こころ躍りを あはれと思へ
かなしシリーズ
啄木はよく「かなし」んでいる。抒情的で良い。
・病のごと 思郷のこころ 湧く日なり 目にあをぞらの 煙かなしも
・盗むてふ ことさへ悪しと 思ひえぬ 心はかなし かくれ家もなし
・かの旅の 夜汽車の窓に おもひたる 我がゆくすゑの かなしかりしかな
・山の子の 山を思ふが ごとくにも かなしき時は 君を思へり
・いくたびか 死なむとしては 死なざりし わが来しかたの をかしく悲し
・人といふ 人のこころに 一人づつ囚人がゐて うめくかなしさ
・わが去れる 後の噂を おもひやる 旅出はかなし 死ににゆくごと
・朝な朝な 支那の俗歌を うたひ出づる まくら時計を 愛でしかなしみ
・治まれる 世の事無さに 飽きたりと いひし頃こそ かなしかりけれ
・友われに 飯を与へき その友に 背きし我の 性のかなしさ
・目を閉ぢて 傷心の句を 誦してゐし 友の手紙の おどけ悲しも
「何の心ぞ」シリーズ
「何の心ぞ」と自分で自分に問う短歌が結構ある。
・誰か我を 思ふ存分 叱りつくる 人あれと思ふ。何の心ぞ。
・水晶の 玉をよろこび もてあそぶ わがこの心 何の心ぞ
・かなしくも、病いゆるを願はざる心我に在り。何の心ぞ。
秋の風シリーズ
最後が「秋の風吹く」で終わったり「秋の風」が挿入される短歌がいくつかある。秋がお好きのようだ。
これが秋の歌をよく詠んでいる理由かな→「秋の声 まづいち早く 耳に入る かかる性持つ かなしむべかり」
・わが抱く 思想はすべて 金なきに 因するごとし 秋の風吹く
・そのむかし 秀才の名の 高かりし 友牢にあり 秋のかぜ吹く
・ アカシヤの 街にポプラに 秋の風 吹くがかなしと 日記に残れり
・今日よりは 我も酒など呷(あふ)らむと 思へる日より 秋の風吹く
故郷への郷愁
啄木の年譜をまだよく知らないが、故郷を謳ったものが結構ある。
・ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく
・二日前に 山の絵見しが 今朝になりて にはかに恋し ふるさとの山
・石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし
・ふるさとの 土をわが踏めば 何がなしに 足軽くなり 心重れり
・ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな
ふるさとに 入りて先づ心 傷むかな 道広くなり 橋もあたらし
他にメモしておきたい好きな短歌
何がなしに 頭のなかに 崖ありて 日毎に土の くづるるごとし
純粋に好き。
世わたりの 拙きことを ひそかにも 誇りとしたる我 にやはあらぬ
好き。
負けたるも 我にてありき あらそひの 因も我なりしと 今は思へり
好き。
手套を 脱ぐ手ふと休む 何やらむ こころかすめし 思ひ出のあり
好き。
その膝に 枕しつつも 我がこころ 思ひしはみな 我のことなり
いいね。
いたく汽車に 疲れて猶も きれぎれに 思ふは我の いとしさなりき
わかる。
何すれば 此処に我ありや 時にかく 打驚きて 室を眺むる
わかる。
竜のごとく むなしき空に 躍り出でて 消えゆく煙 見れば飽かなく
はかない。無常。
いろいろの 人の思はく はかりかねて、今日もおとなしく 暮らしたるかな。
イイ
何となく 明日はよき事 あるごとく 思ふ心を 叱りて眠る。
イイ
人とともに 事をはかるに 適せざる、わが性格を 思ふ寝覚かな。
わかる。
何となく 自分をえらい 人のやうに 思ひてゐたりき。子供なりしかな。
わかる。
何となく、案外に多き 気もせらる、自分と同じこと 思ふ人。
わかる。
何か一つ 大いなる悪事 しておいて、知らぬ顔して ゐたき気持かな。
わかる。
何もかも いやになりゆく この気持よ。思ひ出しては 煙草を吸ふなり。
わかる。
うつとりと 本の挿絵に眺め入り、煙草の煙吹きかけてみる。
なんかわかる。
ただ一つ家して住まむ才能を我にあたへぬ神を罵る
ふむ。
何よりもおのれを愛し生くといふさびしきことにあきはてにけり
ふむ。
明日になれば皆嘘になる事共と知りつゝ今日も何故に歌よむ
うむ。