夜の痕書き(日記)
夜詩です。
特別ページにできそうなものが今のところ浮かばなかったので、私も日記というものをしようと便乗しました。
とはいえ、普段アプリのメモに書いているものもあるから、ここではアウトプットとかを意識できたらなぁ…
21/12/25(土)
クリスマスには因縁があったりして忘れていた(クリスマスイブの配信は見て楽しんでいるくせに)。クリスマスプレゼントは推しのライブパンフレットということになりました。(お昼に届いた)
21/12/23(木)
色々終わり、色々始まる。人々のふるまいはゲームや演目のようだ。究極の離人症か?それを面白がって笑う私もまた動かされているだけか?
とにかく黙ってみた。いや、とにかく勉強したすぎて、何も話したくなかった。なら今は話したいのか? どうかな。
高校数学の確率・統計のやりなおし本を買ったので、少しずつやっております。ゲームやら3dcgは放棄。
詩や小説は悪く言ってしまえば、独断的。自分の世界、自分の時間感覚、自分の視野……。歌詞を書く機会がほしいという話。それぞれの媒体はまるで性質が異なり、これは日々の感覚からどれに注力できるか変わる。
どうでもいいが、バタイユの蕩尽概念を現実的に用いる方法をなんとなく思いついたから、いつか書く。
なぜ死者は永遠に名誉を得るのだろう。それは正しいのか? 人に対する名誉や称賛は瞬間であり、被造物はいつでも変化する。それを推し進めるのは儀式だ。私は去年講義を受けて以来、我々の活動のほとんどを宗教的、儀式に還元できると考えている。それはなぜ行うのか?という問いに対して答える意味も、行っている意味もないということだ。なぜ羊を殺し捧げるのか?なぜ12時に食事をするのか?その中で称賛・信仰するのは精神や魂・神だけだ。しかし死者は永遠に称賛されるように思う。偉大な哲学者もそうだ。覆ることは稀だ。
創作についてはあまり書かないようにしよう。とにかく私は様々に動き回ることで活動的になるとかいう、意味不明な習性を持つのだと気づいた。いや、どうでもいい。変な効率やら効用を考えて動くことはよくないことをもたらす、時期を待てばいい。
21/12/12(日)
お昼ご飯後の眠気覚ましとして。
昨夜はVCに参加。ウィトゲンシュタインに対する鬼界氏の発言に対する考察など。マルコムによるウィトゲンシュタインの評伝を買っていたので、彼の神秘的・宗教的な部分を探してみる。今のところ聖書ぐらい。論考について昨夜は聴いたので、やはり論考が気になってきてしまった。
昨日、なんとなく自分がやりたい創作の感覚がつかめたように思う。&Premiumという雑誌があるのだが、これが室内の空間を示しており、かつ地に足のついた(こういうライフスタイルいいよね!みたいなものは浮ついていて嫌いだ。そこで生活しているという実際性のないデザインは戯れ言だ。ファッションショーにでも出していればいい)生活のある写真が掲載されていてよかった。食事なども載せられていて、私はこういう空間と生活のデザインがしたいのかもしれないと思った。(とはいえ、市川春子氏が好むような建築について考えるのも好きだ。しかしこれらをどう3dcgに落とし込めるのだろうか)
しかし問題は、私が空間芸術を苦手としていることだ。空間芸術というのは、たとえば絵画や写真といったものだったか。そういったものを創作するのが私は苦手なのだ。というのも、ひとつの画というものにこだわりきれない性質があって、また背景として存在する建物や空間というものが主題になると思っていないことも大きい。なぜ苦手なのか、それは一瞬というものに懸命になれないのだ。写真を撮る際に、様々なことに気をつける必要があることだろうが、私はそれに関心がいかないうえ、それをしたからといって悦びはない。どう3dcgに向かうか。ゲームの講座の続きをとりあえずやることとする。
現在読書メーターで『呪われた部分』の感想を書くため、メモや書籍を見返しているが、バタイユも沈黙のことを述べているなぁ。沈黙大事。(それに比べお前はどうなのだと自分で思うが)
21/12/10(金)
昨夜、しまんさんとカロさんとのVCに参加。人と会う際に必ず贈り物をする・初対面では楽しませようとする、ポトラッチ・対抗贈与の話。一心同体のような二人の話 場や基準などの、解釈の要因。夜に上の階の人が騒ぐ謎のお話。どうも僕がここで書いていることや、Discordのサロンなどの発言を見られているらしく、嬉しかった?
世界観。そういえば、私は旅人の視点と強さを求める視点があって、それは本来私の人生の中で相反してきた性質たちだったが、今はそれが矛盾しないようになってる気がする。旅人とは、世界や星座の線を自分で引き直すことだ。つまり感覚を重視させる創作方面であり、あまり旅というところに力点はない。強さは哲学、己の生、結局は世界観か。お二方とは違って、私はあまり親しくしたいという念が人に対して湧かないのだ。それに気づいたり、色々あったりで、今年これまでの人間関係をわざと壊したのだった。ある種自分の思索を深めることができた一年ではあったから、矛盾が解決したのかもしれない。矛盾の多くは他者がいるからかもしれない。
第三の呪い
私は以前三つの呪いの話を書いたが、あれは時制や因果の話だ。つまり第三の呪いは未来のこと、可能態である。これを話したかは忘れたが、以前自分の第三の呪いは長髪の女性だというイメージが自分の中にあった。結局誰なのだろうと思っていたが、最近それは私のアイコンの彼女なのだと気づいた。
夜詩痕(Yoruuta Ato).iconは元々別の名で活動していた際の、没になった小説の主人公である。病弱だった彼女は成長し、自分とは異質なものを見るという旅に出る。兄が結婚していて、彼女は喜ばしく思っているはずだが、今思えば何を考えていたのだろう。あの頃の私は今のように生粋の道化つまり演じていることすら自分でわかっていないような再構成を行っていたが、とかくきれいなものにこだわるあまり、創作の人物の薄さがあったなぁ。今は今で人物は書けないのだが。
第三の呪いのイメージは、デミアンのように人を破壊し変えてしまうような、呪われる側ではない呪う側だったのだが、まさか全くそことは無関係のキャラが私と同一化するとは思わなんだ。ちょうどよく昔の幸福を愛した僕と過激だが生を走る私のバランスが取れているのかな。
建築と家内の空間デザインって違うのかな?確か市川春子氏が後者に興味をお持ちになられていたなぁ。ウィトゲンシュタインは後者をやっていたのかなぁ。
21/12/09(木)
先週の日曜に参加した『斜陽』の読書会を受けて、斜陽を読み終えた。私はかず子が他人事のようにはできない罪人側の人間であり、また彼女のようにそれでも己の目的に向かう気高さや犠牲というのにも向かっているなと。やはり太宰の作品から気づくことは多いなと。弱者というかなんというか、彼自身の思想にも見えるが、やはり私には各人物が持ち合わせている思想に思う。滅多に太宰は自身の思想を下地に小説を書いているイメージがない。そういえば、当然のように正当な怒りだとかを覚えるこの私は罪人であることを思い出した。怖いね、記憶とは。知っていることと、自覚していることはこんなにも違う、いや私は捏造し続けていたのか。だが私を裁ける人間は、『斜陽』を踏まえても、いないのだ。人間皆同じとは言わない。だが、神ではないもの以外全ては罪であり、その存在は害悪だ。人々は仕方がないから、自分たちで刑に処するのだ。
太宰作品ぽいことを言うか。人は正しいだの善いだの言うが、それはただ怖いだけではあるまいか。自分がおそろしい目苦痛に合わされるのを恐れているからこそ、正しさだの善いを述べるのではあるまいか。以前にも述べたように、私は功利主義があるのではなく、それ以前からその機構でしか人間は動いていなかったという虚妄を持っていた。だからなんだとも言えるが、私は技術や科学の進化によって人は救われないと考えている。生物の問題はすべて資源の有限性に終始する。陸に上がり、手足を用いて三次元に動き、火を用いて、石油を使い、電気を使い、企業で提供するものをサービス化し……。はっきり言ってこれを終わらせるものはやってこない。
21/12/10 仮に技術によって人間の苦がなくなったとき、古代の自由人たちのように快と善が合わさったものを考え始めるのだろうか。
仮にできたとしても、所詮人間は猿だ。その猿が、いつの時代か快苦や選好にとらわれない、神の世界にある真理・法に向かわなければならない時が来るだろう。この功利主義的・選好重視の社会や巨大な生物は、これを迎えない限り滅ぶだろう。
話はくるっと変わる。推しのヰ世界情緒さんのファーストアルバムが届き、今日は2周年記念の生放送をしていた。とても充実感。彼女の紡ぐ言葉、楽曲、創作をこれからも見届けたいと思った。創作をやめてしまった私がまた創作をして生きたいと思えたのは、彼女の作品があったからなので、これからも頑張ってほしいな。
今日は書店を巡って、『日常的実践ポエティーング』『空間の詩学』などの関心深い書籍を見たが、今は理論詰め込みたくない。とにかく創作に向かいたかった。ゲームを作ることを目標にしていたが、3dcgのソフトを見るなり、ウィトゲンシュタインのことを知っていくなかで、建築デザインや空間を作ることを3dcgでやったら楽しいのではないかと思い始めていた。ゲームを続けるのかは買った講座を終えてから考えるけど、もし仮に空間を作る創作をするなら、ウィトゲンシュタインの気質だとかにあやかりたい・単純に彼の生に関心を持ち始めたので、平凡社ライブラリーのウィトゲンシュタインを買いたいなぁと思っている。
21/12/07(火)
何かをすると決めれば決めるほど邪魔の入る一年だった。思うようにいかないことに苛立ちを覚えているのではなく、戯れ言や全く人として信頼できない態度や言動をするような輩ばかりにかち合うことに、これは災厄だと思った。人災である。
自分の魂の精度は上げようと、これらの度に思う。しかし人はそうではなく、仮にこれらの輩のようなものが多くいるのなら、己の努力は犠牲にもならない、儀式にもならない搾取だろう。
私は旅人という創作や感覚・神秘を重視する性質がある反面、名誉をかけて戦いたいという性質がある。輩のために正義を振るうのではなく、名誉・栄光ある敵を前にして叩きつぶし、その名誉を得たいのだ。愚かさの前に常勝することは名誉でも何でもない。これらのことはバタイユからの影響ではない。また私が述べる悪や破壊というものはデミアンなどからの影響でもない。言葉自体は後であっても、私にはその原初的体験を持っているのだ。
しかし名誉は瞬間である。破壊もまたそうだ。戯れ言もまた刹那に消える。残るのは誇り高き真実の道だけだ!
そんなことよりも読書メーターを始めた。ハイパーリンクで面白そうな方や本を探すことが楽しく、体がだるくやるのも億劫なことを忘れてリンクを踏み続けてしまう。年間30冊程度か……と落胆しつつも、何かこういう履歴が一望できるのは壮観だ。
そう、読書メーターに書くのは躊躇われるので、ここにデミアンの感想でも書こうと思う。(でも結局書くかもしれない)
21/12/05(日)
とにわさん、アザラシさんたちとVCをする。ネットと現実世界の差異、個人情報を
明かさずに成功する者、道徳、贈与論、バカの壁、論理的人間のマイノリティ性など。
どうもお二方は人とのコミュニケーションにおいて、共感型ではなく論理型のようですが、私はどっちなのだろうと思った。話の流れ的には論理型だったが、なぜか私は個人の感覚なども重視する。なぜだろうな。とはいえ、私は論理型から共感型を演じられるだけだろう。結局会話というのは論理性や規則性がある(最近ウィトゲンシュタインを読んでいると、現実的な会話に対してこれだけ直接的に考察できるのかぁと)。だがやはり状況は考察できても複雑な心情はやはりわからない。そもそもそんな相談をされない。私は人間性の欠如がある。化け物が述べる言葉を、人間が見れば人間側からその言葉を理解しようと補完するだろう。しかし物語になると前提となるテーマが伝わらず終わる。(伝わらないというより理解されないしたくないものであると思うから)
バタイユを読む以前から名誉を重視する癖がある。名誉のことを考えたとき、自分を含め多くの人は弱い。強くならなければならないとよく思っていた。(最近の私は真逆のことになっている、真面目に遊んでいる)人と話しても仕方がない、作れ、と思っていたが、話をしたり聞くのも楽しかった。後に自主読書会のVCにも参加して、太宰についてお話を聴いたりした。
旅人としての自分と、論理という銃を扱うために鍛える自分がいる。
エコーチェンバーは今後、功利主義的見方や選好への偏重が進むのではないかと考えるなかで、検索エンジンもまた似たような現象を持つのはちょっと頭になくて面白く感じた。そもそもSiriの時点で検索エンジンは絡んでいるはずなのだが。真理や宗教といったところからの集団に立ち返ることはあるのだろうか。 ゲーム作りが全然始まらない、創作のために生きているようなものなのだから、どうにか時間を作ってでもやりなさいよと、ここにあえて宣言しておこう。
21/11/29(月)
思考のメモです。
原子では説明がつかずにクォークを導出した。(適当なことを言っている可能性)今より技術が進めばよりよい説明ができる原初的物質が出てくるはずだが、量子力学は結局よくわからないが使えている。(よく知らずに書いています)人口知能も知性ではないが使えている。つまり我々が生活する分には神の真理とは不要なのではないかという仮説のような妄言。
功利主義があるのではなく、生まれたときから私たちは善ではなく快苦を基準にしているからこそ、功利主義という括りができるだけではないか。そして現在のネットなどは「選好」によってある程度、役に立つ情報やサービスが受けられるようになっている。(Siriによいお店と悪いお店、どちらを聞いても同じ回答を出したようだ、すぐに修正されたりするらしいが)これらを踏まえると、そもそも私たちの生活に真理など不要であり、これまでも足枷になっていたのではないかと考えてしまう。(真理が無意味と述べる意図はない)
キリストが婦人に欲情したものは姦淫したのと同罪であると述べる。厳しいと思うのは、これが神の善だからだと思う。神の善が悪いということでも神に知性がないわけでもなく、ただ私たちにとって神が敷く善というのは結果が自分の世代には出てこない果てしなく苦しいものだと思う。それに喜びを見出せるよう肉体は作られていないだろう。 精神がそれに応えるかどうかなのか?(本当か?)
創作活動の一貫として、プログラミングの訓練としてもゲームを作りたいと考えている。しかし時間と心の余裕がない。考察をして、何が作りたいのかは確かにしておこう。
どうぶつの森 何か知らない町をめぐる楽しさ ちょっとした冒険 ポケモンで町にひたる感じ(あれは冒険という大きな筋道から外れるから楽しいのでは?)
プレイにある程度の緊張感が必要?(フロー理論?)
きちんとした名誉が払われる必要 なぜ人は確かなものが帰ってこなければいけない、何かに値するものには何かを与えるのか
21/11/22(月)
呪われた部分を読み終えた。爆弾低気圧のせいか、自分があいまいな、公的な場にも
悪にも属していない感覚を持つ。明日には戻るかもしれない。
一昨日はレオさんが催された自己紹介カフェに参加した。民俗学、文化人類学に関心がある方々が多く、私もそこから自分のテーマで学べることがあるなと感じた。僕は人と話すのが苦手だなと改めて思った。(語るほうが承に合う。いつか口にする言葉がすべて詩であればいいのに言ったっけな)
哲学探求とKindleで安かった金枝篇を買った。本当ならエロティシズムやフーコーを読みたい感じがあるが、衝動には勝てない。なぜウィトゲンシュタインなのか、未だにわからない。今日はたまたまスピノザの議論を聞いたので、入門書を読んだときに書いたメモを見返しながら、どう自分が影響を受けたのか眺めていた。天候のせいか、ここからどうなるのか本当にわからない。推しのライブアーカイブも終わってしまったしな。終わるものはすべて燃やさなければいけないのだ、と感じた。バタイユが言うところの物を聖なるものへと還元するための破壊か。とはいえ、来月にはアルバムやライブパンフレットが届く。彼女の紡ぐ言葉を見届けたい。(もちろん曲も)
21/11/17(水)
ヴィトゲンシュタインの『哲学探求』はどの訳が良いのだろうか。(メルカリに安く売られているからわからなかったらとりあえず買うか)
無限で永遠で不変の神と、生成消滅する私とがなぜ接続できるのか。観念論(これで括るのが適切かわからない)において、スピノザは神だけを唯一の実体として、人間などは神の様態であるとした。バークリは人間や動物などの一集合に対して、神はその集合に含まれない超越したもの「一者」であるとした。彼らは結局のところ各々の理論で人間は神に近づけることを述べるわけだが、これらはあくまで人間が神に近づく道程を示しただけに過ぎないのではないか。私はなぜ異なる性質のものが接続できるのかに関心がある。(原著にあたっているわけではないので、書いてあったり、他の哲学者がすでに述べているのかもしれないが)
無限に巨大なものの一部分から私たちが現れてくる感じか?とはいえ、神の議論においては状態が不変である以上部分がないとする議論もある。そうした場合、この想定は無意味なものとなる。
なんとなくだが、郡論や記号論、言語学、論理学が自分に必要なのではないかと感じている。それだけで解決するわけではないにせよ、手に取る良い機会なのかもしれない。(バタイユはどうした)
21/11/10(水)
ここにいては成長できないと、それまでの人間関係すべて壊してここに漂着した。その人々のひとりと昨夜会った。何も話さなかったが。
感覚についての走り書き。講義まで時間があったので昨日考えついた絵を描こうというアイデアのもと、久しぶりにイラストを描いた。最近曲をよく聴くヰ世界情緒さんを描いた。これまで何かうまくならなければならないといった強迫感で絵を描いていたが、私にとってはそこが重要なわけではないようだ。(100日でこれだけ試行錯誤し上達したというnote記事があるように、違う人間もいる)
絵・イラストを描く側になると、線の伸びや形(心理学的に原初的な形のやつってなんだっけ)の喜びがある。きれいにうまく描けたということではなく、描いているときに感じる喜びだ。どのようにしたら良く見えるのかという意識はあるが、それ以上に自分自身が美しいと思う線を描いているように思う。快も同時に生じる。そういったことが何かを描くうえで重要なのかなと思う。まただいぶ姿勢が悪い座り方で描くと、すこし俯瞰視できる。(そもそも椅子や机が悪いのもある、何かあるか?)
しかしこれだけではいられないのが人間の性であり、私はそれで何度も失敗してきた。もしかしたらだが、成長の限界を迎えた後に有用性のないエネルギーの発散(蕩尽・浪費)などを論じたバタイユの論がここで活きてくるのかもしれない……これが感覚的な飛躍。
21/10/31(日)
昨日、C#の入門書を検討するため書店に行ったが、自分の関心のあるものが変化したから書き記そうと思う。
これまでは今年の抱負であった社会的な物事への関心として、哲学や思想からの政治・宗教へと関心を移していった。
現在は自分への立ち返りの側面が強い。今月にライブやら色々あって、私が悪と称するものへの探求を進めたいと思った。創作活動にも。(ゲームを作ろうとしている)その自分にとっての真なる思想を得てからでも、政治的なものは遅くないと思いたい。
具体的には、現在読んでいるバタイユ、アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』だ。また私が重視する公的なものと私的なものの後者に批判を浴びせているというハンナ・アーレント『人間の条件』は関心深い。残された学生時間で、プログラミングも書籍もお金のやつとかもやって、強くなりたい。(ただしこの語自体に意味はない)
21/10/29(金)
昨夜はdiscordの方で、初めて元帥さんとお話していた。面白かったので、自分なりにまとめます。
「概念は信仰から生まれるのではないか」(cr0uuさんからの意見)
人々に共有されている概念の成り立ちの根本には、人々による感覚的に新たな概念を信じるといったことがあると解釈。
例:伝統的なアリストテレスの宇宙観を覆すケプラーやガリレオの理論は、自然に考えて地自体が回っていると思われなかったがために受け入れられなかった。
学問はただのイデオロギー論争?
夜詩的にはそれは問題であり、学問は真理を探求する(ただし私たちは非十全であるから、真理そのものを手にすることはできない)ものである以上、そこには真理に近づくふさわしさが必要だと考える(美徳の問題であるということ―俗世間的なものに還元されてはならない)
真理を探求する際に、循環論法や無限後退は免れないのでは?
これらによって批判されてもなお理論や概念を掲げるのはイデオロギーでしかなく、この多様なイデオロギーたちは状況によって一旦受け入れられ優先順位がつけられる。
この優先順位は法のもとに許される。政治や法の話になってしまう。
また真理を探求するにしても、前提を設けざるをえない。この前提が変わってしまえば、その回答も変化する。これらの前提にまた優先順位をつけていき……
多様なイデオロギーや価値観といったものはないと考える。あくまで多様なのは真理からのズレでしかない。(こう見ると、回答になっていない。無限後退などの真理に対する相対化を批判しているようだ)
シンクレティズム(混交主義)をもとに話し始める。(誤った謎の造語をdiscordで記載してしまっていた、恥ずかしい)
各思想や理論の良い部分を使っていくことでしか、真理に近づく道はない。(恣意的な優遇には要注意だが)
前提を設けることにも、夜詩は問題がないと考える。
前提が変化して回答が変わった学問の前例は多い。しかし、それまで積み上げてきた学問が無価値になるわけではない。どこまでもゴールできない頂上を目指す営み。
つまり混交主義の前提でもある、真理はひとつであるという立場をとる。そのために前提が異なるイデオロギーの優先順位をつける必要はないとする。(この部分は本来記載していない)
無限後退などの相対化に対する批判
学問はイデオロギー的というものを踏まえて、学問を批判できるのは少なくとも学問またはイデオロギーの段階にある必要がある。
しかし無限後退などはどの立場でもとれるどころか、その先がない。少し俯瞰視しただけである。
こういった感想レベルのものを学問の批判の道具にはできない。学問からして取るに足らないのである。(懐疑主義の批判ではない。無限後退などは懐疑主義にも満たないとする)
真理に近づこうとするもの、それが学問やイデオロギーになりうる。相対化をする人間は結局、その相対化したものを真理としてしまっていて、真理とは何なのかと探求する気がない。歩みを止めてしまった人間。
学問は、非本質・非十全で真理たりえない私たちが本質的になりうる営みのひとつだと考える。(別に学問でなくてもよいとも)
真理に近づく絶え間ない営みに意味や価値がある。真理に近づく行程を辿ることで、それまで当然で何も疑問を抱かなったものに対して違うと批判して新たな概念・理論を打ち立てるといったことでしか、私たちは本質的にはなれない。(本質に向かわなければならない前提・強迫観念的?)
最近の就職活動の忙しさが落ち着いたので、久しぶりに思考や議論したように思う。振り返ってみると、私は確固たる学問の定義をあらかじめ持っていたわけではなかった。何も考えていなかったわけではないが、私の中で優先順位が低かったのだろう。こうして人と議論すると、相手の自分とはまったく違う動機などで動いているといった他者性が与える影響が垣間見える。自分がそこまで関心を寄せなかった分野に対して、議論によって言語と論理が導き出される。これが本当のアウトプットのように思う。とはいえ上の議論、最近読んだスピノザやサンデル、キリスト教の影響が根深いなとも感じた。
21/10/22(金)
神について語る無意味さ(語りえぬもの?)
神ないし本質というものはそれ自体で存在するものであり、それはいかなる影響も受けない。ゆえに真理や本質ではない生物である私(いかなる他者もそうだ)がどれだけ何かの本質や実在を語ろうと、それは徒労に終わる。非本質ないし非十分なものは、本質に干渉できない。(であるのならば、なぜ本質は私たちに影響を与えることができる? スピノザであれば全ては神の様態であるとしてしまう)
なんの話だろう。
ヰ世界情緒
明日にライブを控える彼女の曲を、最近はよく聴いている。何かと最近はバーチャルという接頭語(語彙がなくて適切な語じゃないな、なんだっけ)を用いた者やらコンテンツが増えてきたが、はっきり言ってその仮想性だとかの本質に迫ろうとする意欲のあるものはほとんどいない。(いなくはないが……)
そんな中、彼女のオリジナル曲は自身の仮想性を意識した歌詞であることが多い。そこに彼女の個性であるダークさが合わさり、自分自身の身体(ヰ世界情緒というキャラクターのガワ)は偽物であることを突きつける。まだ私も新参者であるため、彼女のストーリー性を正しく把握しているわけではないが、道化を思わせた。彼女の歌から表される自身の仮想性・虚偽というのは、バーチャルということから派生するものとしては目新しさを覚える。
そんなことを思いながら、明日のライブ配信を楽しみに待つのであった。
創作を語る愚かしさ、不言実行と世界観の創出・侵食(最近見たもの)
やっと履歴書やら何を話すかがまとまりつつあり、今後は少しずつ物事への時間が取れそうだ。呪われた部分はもちろん読む。しかし最近感じたのは、履歴書にエンタメよりの創作活動のことを書いたことに対するものだ。それは愚かしいという感情だった。私は創作活動をやめて久しいが、最近悪だとかの自身がこれまで考えてきた物事への統一的な視点を手に入れたために、その役を担っていた創作活動を無下にできなくなった。そうした際、この履歴書やら面接でどんな施策をして課題を解決したのかを示すために創作の方法論を語る自分というものの馬鹿馬鹿しさが感ぜられた。自分自身が大切にしていたものを、こうも簡単に社会に明け渡すのかと。ならば私はより秘密裏に、密かに、夜闇に世界観を成すしかないだろう。その物事に笑い出し、生きるしかない。
こうして長文を書いていると、承認欲求や自己開示が暴走しているように他者から見えることだろう。しかし私にとって、過去は過ぎたものであり、セミの脱け殻以上の役目はない。またそもそも、私にとっては創作活動における作品作りそのもの(過去の方法論やら、自分が何を語ろうがそれは私ではない、他者から見えるものはその当人の恣意によるものであり、どこまでも騙し続けられるものだ、こうして書いている私までもが)が最も深い部分であり、その部分を見せることこそが自己開示と言える。つまり、私はほとんど誰にも自己開示していない。私が社会で生きていけない種族である自覚があるからこその画策であり、道化を演じていることを忘れた道化なのだろう。
21/10/20(水)
ここずっと忙しくまったく顔を出せないでいる。
21/10/15(金)
多様なものへの寛容は、本来的には慈悲深さが内在していないといけない気がしている。私はマイページにも書いたように、ことさら他者の自分と違う部分に着目せず、その部分を否定もせずに能力だけで社会と同じように評価している。(方法的無関心)だがそれが正しいようには思えない。都市生活において、隣人が誰だろうが不快でなければよしとするみたいな、何か気持ち悪さがある。
というよりもあまり言いたくはないが、この世における多様なものへの寛容というものが、(私が見る限り)何かやはりその場に適したものを求めて他を廃する傾向があって、多様な人間は触れてはいけない人みたいな扱いになっているように思う。つまり偽善であるように思えてならない。あらゆるものに接続できずにいる私から見える視点でしかないが。
創作活動に対して、最近は苛立ちか何かで、生きることに関しなければ劣等だと考えていた。(とはいえそれを言及したところで、そこにあてはまらない人間はまれだと思う)今年の三月に『ソッカの美術解剖学ノート』を勉強したことを思い出す。閉鎖感と無力感から打開するために、私はこのアイコンのような表現から、上手くなろうとしたのだ。勉強自体は面白かった。しかし実用と自分自身が求めていないことを懸命に行った代償は、私が完全に絵を描けなくなることによって支払われた。私は悪を重視しながら、自分自身との向き合わずに社会化していたのだった。
このアイコンの絵を見たとき、素朴な表現や遊びの感覚があったことを今日思い出した。なんて愚かなのだろうと思う。
21/10/14(木)
公的なもの、つまり国家や資本主義が支配するものが支配できないもの。それはロックも言及していたが、私の中ではそれは「悪」なのだと感じている。※私が述べる悪は、善悪などの価値基準の話ではない。
この悪の典型例は、誰しもに生じる性愛や恋愛だ。反例としてマッチングアプリが上げられるだろうがあれはあくまで片側たちを集めているだけで、まさかその二者間を支配することはできない。つまり悪というものにはプライベート性と換言してもよい。無論、結婚は公的なものであり悪ではない。
私はこの悪の範囲を持つことが生きることで重要なのではないかと考えている。誰にも侵害されない領域・資産だ。
最近は三浦綾子の『新約聖書入門』を読んでいる。そこで「一マイル行く者と共に、二マイル行け」というキリストのお言葉が紹介される。ローマ兵に一マイル行けと命じられるのは全くの屈辱だが、彼らの命ずるものではなく、自分の意志として還元し行動することで、他者に支配されないものを持つ話だという。これを先の悪の話は思い起こさせる。
悪ということと宗教や経済において、バタイユに関心が戻る。内的体験はまったく読めなかったが、呪われた部分は経済学の記事を読んだりしたから、読めるといいな。
21/10/11(月)
正式ではないという意の悪と月の領域を増やすことが、私のような愚者にできることだろう。
21/10/03(日)
カラオケにひとりで行きました。だいたい理芽さんとAdoさんの曲を歌っていた。以前より音痴は治るが、自分の声が気持ち悪く感じる。(とはいえ、ほとんど脳内で想定している声なのだが)滑舌や喉から声を出して生活しているものだからか。
『かくれんぼ・毒の園』が寄った書店になかった。どんな感じかだけ見たかったが。幻想や耽美には関心がまだある。
NHKテキストの資本論(斎藤幸平)を読んだ。去年に読んだ『経済人類学への招待』を思い起こさせた。また私が就職活動をしているのもあって、クリティカルなものだった。そもそも私が労働者を奴隷だと考えていたのもある。 論点として、資本主義はさまざまなものを商品にし、本来的にはみなが使えたものを奪い取り金と交換させる。しかし人々は生産する力がないために、労働力を商品として資本家に売るしかない。だがこれもまた資本主義下においては、社会の富(人々の幸福など)を良くするのではなく、限界なく資本を増大させることを目的とするため、どれだけ労働者が生産性を上げても、それが彼らに還元されることはない。
後者の書籍では生産性を上げてきた我々は昔の人々と比べて、高い栄養を得ているのかということが論点だ。答えは否らしい。必要なだけ収穫すれば、あとは遊んでいたらしく、狩猟ができなかった夫の代わりに、妻が付近の植物を必要なだけ採る生活をしていたようだ。この書籍では資本主義による時間の発明や、原住民(言葉があっているかわからない)たちの日々の生活における遊びの感覚などが語られ興味深い。
話を戻して、マルクスの構想していたポスト資本主義としてのアソシエーションというのは、富の共有といったものらしい。シェアや贈与の範囲を広げていくことのようだ。贈与という点はやはりモースが気になってくる。たまたまサンデルについて書かれた記事を読んだりして、やはり集団における宗教や儀礼的な行動について知りたくなった。
21/10/02(土)
だいぶここ数日で自暴自棄になっていた。呪いとはまたちがう、ストレスでもなく、ただそうなっていた。まぁストレス。
ここに書いても仕方ないから詩的に述べれば、他人の道化に憂いていたら、私こそが人間失格だった、みたいな。
書こうとすると苦しくなるし嫌になるからやめよう。
とかく、私は人とつながることがどこまでも地獄のごとくできないのだなと。
人の呪いには三種ある。ひとつは肉体的な呪い、つまりは肉親や血縁。もうひとつは生の呪い、それは肉親などの生まれを超えているが、現在ある私に刻まれた無数の傷痕であり、己が受けたそれで自分を縛り続けるのだ。そして生後の呪いでありながら己の生を超え始める、つまり本質になりうる。
私の今の状態は、三つ目の呪いだ。それは未来にある像が私にそうさせる呪いであり、私のなかでは未来は存在し得ないが(どこまでも現在しか存在しない)、その未来はある種の目的論的な視点から私に可能性が内在するという呪いだ。可能態。
21/09/27
土日は休めるだけ休んだ。日曜は何も考えなかった。とにかくここ最近は暗くて仕方なかった。
昨日見た投稿を受けて、私は戸田久実さんの『アンガーマネジメント』を購入して読み始めた。私のやり方が人を傷つけているという自覚は持っている。別に私は人に良くする方法を知らないわけではない。そういうことをし続けるなかで、どうしても解せないことにかち合い、底に墜ちてきただけだ。
人に良くすることへの否定的な自己啓発もあるが、私は人からの承認のためではなく、人として善であろうとする欲求だ。だが、私のこれまでの経験からの価値観をどのように変えるのか。そこが問題だ。
答えはそういった場面にあっても揺らがない私個人以上のバックボーンとなる存在が必要なのだと思う。それが何かはなんとなくわかっている。
今朝、まぁ大きいクモを殺した。殺すことはなかったと思うが、クモだらけになってもな。彼らは殺虫剤をかけると、ひっくり返るが、後に慣れて(?)戻る。力が弱まると仰向けになる習性でも持っているのだろうか。スピリチュアル的に、朝のクモは幸運の意味だとかなんとか。
今日から少しは明るくなれた気がする。
21/09/24
今日は何かをした覚えがない。最近不調で午前ポカリを飲んだらまぁ治った。
ここのバークリの記事を受けて、自分が書いてたメモをみて、また少し読み直したぐらい。最近暗い気持ちになりがち、このままはきついな。
なぜRWである必要があるかが参考になった。私も今年から書籍を読みながらメモを書くようになりましたが、なかなかどうメモを書けばいいのか悩んでいました。参考にさせていただきますね。 本題。
今日公開されたNetflixの広告で、私が最近推している理芽さんが曲を歌っていた!嬉しい。
私はここ1ヶ月、彼女の曲を夜に聴くことをしていた。その感情の発露に詩も書いたりした。私は滅多に人のファンになることはない。なぜなら、チェリーピックしたくないのだ。その人の姿勢や作品すべてを推したい思えないと、申し訳なく思うのだ。
なので、私は随分と久しく人のファンになっている。彼女が活躍していると嬉しい。好きな曲を歌う「歌ってみた動画」は、プロダクション?側が重視するライブなどを見れていない私にとって、彼女の好みを知る絆のようなものだ。彼女の望むものが叶っていくといいなと思う。
これは祈りなのだろうか?
この疑問にたまたまdiscordのサロンの方で、ETMさんにお答えしていただけた。
音楽を通じて、ミューズや作曲者を感じたり、思いを捧げたりしているのなら祈っているかものこと。
なるほど。なら私は祈りにしては、あまりに個人的なものを持ちすぎている。いや、それ以上に私は私という個の境界線を引き、そこに様々なものを自分の物としているだけではなく、その私自身が溶けているような感覚がある。そこでは私という個は重要ではないのだ。水のようなものだ。
卵の殻を破れば、その中には生物とも非生物でもありうる液体を見つけるのだ。
水は月に照らされ、きらめいている。
コメント欄:
久住哲.iconRWのページ読んでくれてありがとです
夜詩痕(Yoruuta Ato).icon久住さんの多くの記事、よく読ませていただいています~
私もなにかの記事が出せたらなぁ。
21/09/23
疲れがたまりやすい季節で、またむかむかもしていて家を飛び出た。
よく知ってるわけじゃない町の、入り組んだ道が面白かった。お金を忘れたので、やりたかったガチャガチャとかできなかった。チェキ使わなかったけど、面白い景色が撮れたように思う。近頃出不精だったから足が疲れた。
「デミアンについて」
デミアンを読み終えたら、人間失格と比較する記事を書くつもりでいる。なので、そのメモみたいなもの。
結局はシンクレールもデミアンも真実の神聖さのために悪魔をも包含するものを信仰するのだ。
そもそも「人間失格」が同じような告白文学(そうなのか?本当にあるのか理解が浅い)の中で特異な存在なのだ。あれは我々が思っている以上に冷静に客観的に書かれている。太宰の意図してああしたのだと解釈している。(文学に疎いので本当にそう思っているだけ。一応影響を受けた考察がある)
「人間失格」における葉蔵は、神の救いすら恐れ、彼の罰しか信じないような人間である。「デミアン」とは明らかに気色が異なる。崇高なもののために正の道を外すことと、その人物に由来する愚かさゆえの愚行は相容れることはない。
私はそれほど本を嗜む人間じゃないので忘れっぽいはずが、「人間失格」においてはまあ覚えている方だ。しかし後のほうがどうなったかとか解釈が行き着いてないから再読は必要か。
「デミアン」はその点、崇高で物足りなく感じてしまう。卵の殻を破れるだけ優秀で、信仰という生後の話だ。「人間失格」の葉蔵の道化は生後ではなく、生全体である。(それも崩壊したが)
※記事を書いた人って、自分で表示しない限り記事内に出ないのだろうか。あったほうがコメントしやすいように思います。
面白く読ませていただきました。正しさはそこで結論されず互いを認めるというのは、自分の考える、お互いが尊重・尊敬できる距離みたいなのと繋がる感覚がありました。(チェリーピックかもしれませんが)
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21/09/22
詩と人力ボカロの試みをやめた私には何ができるか。
遊戯王のワンキルのシミュレーターがネットにあったので、それをやった。
学生として不良だったので、無学な部分を『アメリカ政治講義(ちくま新書)』でお勉強。州毎に主権があり、どう不快な州の方針と共存するのだろうか。一通り読み終えたら、社会学に進みたい。
『これからの正義の話をしよう』の読書会や自主読書を終えてから考えていること。
美徳という私たちの非本質な、感情的な要望の重要性。
ロックは労働やパーソンといったものは市場に売ることはできるが、キリスト教的観点から神がお造りになられた自分自身の生命を支配する権利は自分になく、また自分自身の獲得物ではないがためにその権利は売ることができないとするそうな。(原著にあたっていないが、そういえば『人間知性論』にも関心がある)
こういった神の領域とすることは、宗教的にとらえるよりかは、当然のことだが何か美徳的な観点としてとらえる必要があるのだと思う。
神という領域を意図的に持つことで、私たちが考える美徳や美しさ、ふさわしさというものが考えられるのかもしれない。
それにより、人間を殺しても功利主義の基準で二者択一し一方を正義と言ってしまうことに対する不可解へのカウンターになることだろう。それは正義や道徳ではなく、
それは選ばざるを得なかった不道徳なのだから。
そもそも『これから~』で紹介された正義の話たちはどれもある領域で使うことで効力を発揮するもので、完全なものはない。どの部分で用いるか、だと思う。
長。すみません…
レオ.icon夜詩さんも日記をアープラノートで始めたのですね。読ませていただきます。
夜詩痕(Yoruuta Ato).iconレオさん、読んでいただきありがとうございます。日記形態だとなんとなくのことも書きやすいですよね。私もレオさんの日記読ませていただきます。
レオ.iconありがとうございます