ゲームについての考察
筆者:夜詩痕(Yoruuta Ato).icon
ゲームという本来的な定義に反して、最も単純なゲームはパズルだと考える。それは正解(ゴール)はひとつであり、またそれに向かう手順もほとんど一通りであるからだ。たとえ、手順が違っても正解できるだろうハノイの塔は、あくまで最適な手順からのズレでしかない。これを好む人間もいるが、手順を最適化してひとつしかゲームというものは広がりや何回も遊ばれることは望めないだろう。 ひとまずパズルゲームをゲームを構成する最も単純で最小の要素としよう。そしたら次は先の課題を解決するべく、ゴールまでの手順を複数化する。しかし最適化は取り払われない。どんなゲームでも最適化は存在する。サッカーにしろ、カードゲームにしろ、最適解を二者以上の相互作用性のもと導き出すことを求められる。
しかし、これは本当に面白いのか。無論、面白いからこそ、スポーツ大会やeスポーツ、カードゲーム大会があるものだ。だが、これはゲームでもあるが、競技性や身体性・知能など、またそれらに対する名誉が大きく関わっている。それがなければ参加資格がないのだ。ゲームをしていて、環境にある強いものではないものを好んで使用する方はよくわかるだろう。「私のやっているゲームや遊び方がおかしいのか?」効率や競技性を求められることばかりがゲームという遊びではないはずだ。実はゲームにはそもそも遊びと競技性・名誉が関係していると考える。遊びは単純に有用性にとらわれない物事であり、ゲーム以外に見いだすことはいくらでもできる。競技性と名誉は、因果と結果の関係にある概念だが、必ずしも競技性を通る必要はないのだ。もしくは競技性における最適化という観点を、何か別のものに置き換えることができるのだ。(どのようなものかはここでは述べない)
ここまでのパズルゲーム、それより最適化された手順を増やしたゲームには競技性が含まれている。これには遊びと対立的な実用性が絡む。(これから述べるゲームもまた、名誉を浴びることでその名誉を再生産しようと有用性に陥るかもしれないのだから)特段これまでのゲームを貶めるわけではないが、競技性や最適化というのはそういう観点があるものだ。
では次にこれらのゲームに新しい要素をくっつけたゲームは、恐らくロジェ・カイヨワの言うところの「脱自我」と呼ばれるゲームだろう。具体的にはスーパーマリオやモンスターハンター、グランド・セフト・オートなどといった、目的はないがそれをプレイしているのが楽しいというゲームである。最適化された手順は確かにあるが、別にそれを追う必要もなく、後者2つでは用意された別の物事をやり始めてよいのだ。しかし人々はスーパーマリオやモンスターハンターには目標があるではないかと反論することだろう。しかしこれには簡単に返すことができる。結局のところ、確かにピーチ姫を助ける・ラスボスのモンスターに勝つということが「ゲーム上では」目的となる。しかしこれを終えたあとでも人々はプレイし続ける。それはなぜか?「脱自我」と呼ばれる効率や有用性から解き放たれていて、かつ非常にプレイに集中している状態(私の解釈)、その状態を求めているからこそ、彼らはプレイするのではないか? これまでの議論とは別次元からの切り込みが入ってきた。プレイしているときの快さである。これはこれまでの小さいものから大きいものを作る物質的次元に、精神的な次元を取り込んだのだ。このプレイしているときの快さをより精神的な次元で追求するなら、「思い出」になると考える。つまり、苦労してクリアしたり人と協力した物事や記憶が、再度プレイする際やそのゲームのことを想起する際の色となる。色というのは、思い入れや良い記憶ぐらいにとらえていただきたい。これはパズルや競技的なゲームにはないものだ。(競技的ゲームにおいても、感情さえ湧けば不可能ではない、ただそれは大きく名誉に関わるのだ)むしろこの思い出をもとに、プレイヤー自身のそのゲームが再構成されることもあるだろう。(具体的には?)
カードゲームについて(今後書く予定)
選択肢の明示化(デジタルゲーム内に選択肢としてカードを用いることもある)
しかしゲームにおける選択肢とは、パブリッシャー側の恣意的な選択肢なのである。つまり、プレイヤーは確かに選択肢を与えられて自由に選択できるのだが、その選択は決して自由ではなく、パブリッシャー側の想定通りなのだ。たとえば、ADVや恋愛ゲームにおいて、わざわざ最適解を逃すだろうか?あらゆるルートをとるために、これまでしてきた選択肢を取るだろうか?
実はカードゲームというのは、選択肢自体 をプレイヤー自身が決めることができるゲームであり、その意味で一般的なゲームのルールから逸脱している。
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