信念の対立する議論はラップバトルになるべき
信念が対立する議論は不毛になる
「愛が全てだ」と信じることは信念と言える。
しかしこれに対して、「愛が全てとは限らない」と反論することが出来る。
議論として進める場合、多くはこのような流れになる
A:愛はすべてである(主張) →B:愛が全てとは限らない(論拠を用いた反論)→A:愛は全てである(詳しい論拠の提示)
この議論は不毛になりやすい。互いに信念が違うからだ。――Aは愛は全てであると信じており、Bは愛が全てではないと信じている。
こういった信念の対立する議論では、多くの場合「互いを納得させること」を終着点とする。AがBを納得させるか、BがAを納得させるか。
しかし、どちらに置いても、論理的に納得させることは不可能である。A,Bの主張はどちらも信念であり、どのように論理的疵瑕があったとしても信ずるべきものだ。これは相手の論理がどれほど優れていても変わることがない。
Aが「愛が全て」を信じる限り、どのような反論にも「この主張は正しい、なぜなら、この主張は正しい(と自分が信じている)から」と言えてしまう。そして、それはAの中において、圧倒的な正しさを持つ。
このままの状態で、論理的なことを重視する議論をすることは出来ないし、どちらが正しいかを決めるべきではない。
信ずることとは感性であり、個人に寄って違い、そこに論理的正しさは存在しない(持ち込むべきではない)。
解決案の一つ――ディベート
こういった、真っ向から対立する意見を交わす議論の方法として、ディベート(討論)方式がある。
互いに話す番があり、論理的根拠を並べ、推論し、相手に返す。そして返されたら相手の論理の疵瑕を指摘し、誤りを導く。また、自身の主張の正しさを押し出す。
ディベートでは審査員(第三者)が必要で、「どちらがより正しく聞こえたか」によって勝敗を決める。
これによってその場では「片方の意見が正しい」という共通認識が生まれ、また反論についても考えを深められる。
ディベートの問題
しかし、信念の対立において、これは適切ではない。相対的とはいえ「正しさ」を判定している印象を受ける。
人は「正しいこと」を知っていると、「誤り」を直したくなる。正しいものは取り入れるべきで、行動に導入した方がよいと思ってしまう。
信念の対立において、“信念”を歪めるような圧力は行うべきではない。「こちらが正しいと決まったのだから、その信念を捨てろ」といった指摘はされるべきではないし、されうる状況も作るべきではない。
(絵を見て美しいと思った感性が否定されないのと同じように、そう信ずる心は否定されてはならない)
ディベートである種の「正しさ」を決めてしまうのは、この状況を作る可能性が高い。
よって、“正しさ”以外の観点で優劣を決める方が良いと考える。
ラップバトルの良さ
HIPHOP文化にはラップバトル(MCバトル、フリースタイルバトル)と呼ばれるものがある。
フリースタイルは即興で、ビート(音楽)に乗せて韻を踏み、あるいは音に合うようなフロウ(歌いまわし)で喋るのが基本だ。
フリースタイルバトルは、このビートの区切り(8小節~16小節)を1ターンとし、相手と自分で互いに攻撃し(Disり)あい、また、相手よりも自分が優れていることを主張する形態である。
勝敗は観客の歓声、あるいは審査員の得票数によって決まる。
このラップバトルは、非常にディベートによく似た構造と言える。ターンがあり、互いに相手の揚げ足を取り、自分の主張を押し出す。
しかし、根本は明確に異なる。ラップバトルはディベートと違い、次のような特徴がある。
論理を重視しない。そもそも8小節という短い時間で、音楽に載せた喋りでは論理的なことを言うのは難しい。よってある程度の論理の誤りは無視される。
感情(バイヴス)を重視する。観客が判定する場合特に顕著だが、歓声の上がる基準は“どれだけ心を動かされたか”“どちらがよりカッコいいか”である。正しさではない。
芸術性を重んじる。審査員が判定する場合、「ライム(韻の踏み方)」「フロウ(歌いまわし)」などが審査基準に含まれる。感情重視にも関連するが、これは「良い」という審査員の“感性”によって勝敗が決まるということだ。
ここからわかること、そして伝えたいことは、ラップバトルの良さ――これが心を動かし、感性を揺さぶる勝負であるということだ。
ラップバトルでは正しさを決めない。それでいて納得はできる。あるいは、相手に対して敬意(リスペクト)を抱ける。
信念の対立する議論において、これほど有効な対決方法はないと思う。
信念の対立は、ラップバトルになるべき
論理は信念を動かせない。信念は感性によって決まるからだ。
故に、信念が対立する議論は、信念を動かすことを最終目標としてやるべきではないと思う。
しかし、どうしても相手の納得が欲しい、信念を動かしたいと思うのであれば、ラップバトルをするべきだ。
ラップバトルは感性を揺さぶる勝負であり、信念を動かせる可能性がある。
それでいて、負けたとしても自身の感情が動かされたのであれば、敬意を示すことも可能だろう。
しかも、勝敗が決しても信念を変えなくていい。矛盾しているように思えるが、変えてもいいし、変えなくてもいいということだ。
重要なのは、どちらかが(絶対に)正しい、正しくない方は間違っているという二元論から脱出できることだ。
リスペクトとは、“オレはカッケーが、お前もカッケー”ということであり、“オレもお前もそれで良い”ということだ。
“それ”は、周りから何かを言われるものではない、という共通認識が生まれることが大事だと思う。
そして、どちらも良いものであれば、究極的には“どちらがより心を動かせるか”という視点で見れるだろう。
心を動かそうとリリックを綴れば、勝敗が決したとしても、「あの人の言ってることも良かった」と思ってもらえるのだ。
そちらの方が、本や理論、実例を引用して説得するよりも、よっぽど“意見が認められた”ことになるのではないか。
本質的に、僕らには論理的ではなく感性的に決めるシステムが、必要なのではないか。
だからこそ、信念の対立する議論は、ラップバトルになるべきだ。
信念の対立であると気づいた瞬間から、論理を重視する議論であることをやめて、感性を重視するラップバトルのような形態に変化し、そうなっていくべきだ。
例え、本当のラップバトルのように、ビートやフロウ、ライムがなかったとしても、“感性を重視する”“リスペクトを送る”という考えの転換をするだけでいい。それでもう、ラップバトルになる。
信念が感性である以上、議論は複雑で不毛になる。それよりは、ラップバトルになる方が健全だと僕は思う。
ということで。
みなさんも、「これ今、論理っぽく喋ってるけど、実は論理関係ないな」と思った時は、気軽に相手へ「もうラップバトルにしません?」と聞いてみてください。
多分「え??」って言われると思います。