判断の特徴づけ【純粋理性批判】
【訳文検討】
このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。 「このように demnach」ってどこにかかってるの?
光文社邦訳の前段落には「統一」という言葉は出てこない。
前の前の前の段落では出てくる
なお原文では段落は分かれていない
該当しそうな箇所はここらへんだろう
ところでどのような判断のうちにも概念が一つは含まれているが、こうした概念はほかの多数の概念にも通用するものである。
この訳文、意味が分からない久住哲.icon
その先を読むと言わんとすることは分かるので、誤訳とかではない。
同箇所の岩波文庫の訳文
およそ判断には、他の多くの概念にも通用するような概念がある、それは……
訳文への批判
Funktion(Funktionen)は術語なはずだがそれを「働き」と訳してしまっている 「統一する働き」と書くと、働きにも色々あって、そのうちの〈統一するという働き〉をするのだと読めてしまう。
だが、【超越論的分析論】機能についてに書いたようなことを踏まえると、そもそも「働き Funktion」は統一(Einheit)によって規定されたものである。言ってしまえば、Funktion = Einheitである。この事情が、「統一する働きをする」と訳してしまうと、覆い隠されることになる。 もっとも、「この箇所のFunktionは術語として使われていない」という見方もできるだろう
同箇所の岩波文庫の訳文
このようにあらゆる判断は、我々の表象を統一する機能である、つまり……
「機能」と訳している分、まだ良い久住哲.icon
それ以前のところでも「機能」と訳しているので。
原文を見る
Alle Urteile sind demnach Funktionen der Einheit unter unsern Vorstellungen, da nämlich statt einer unmittelbaren Vorstellung eine höhere, die diese und mehrere unter sich begreift, zur Erkenntnis des Gegenstandes gebraucht, und viel mögliche Erkenntnisse dadurch in einer zusammenbezogen werden.
【拙訳】以上の話を踏まえると、われわれが持っている諸々の表象に関していうと、どのような判断であってもそれは統合という働きかけである、といえる。というのも、判断におかれては、ひとつの直接的な表象が対象認識に使われるのではなくて、ひとつのより高い表象が……つまりその直接的表象であったりその他諸々のわれわれのもとにある表象を包括的に把握した表象[概念]が対象の認識に使われるのであり、そうしてあれやこれやの認識がひとつの認識へとまとめられる次第なのだから。
"demnach"について
"demnach"が何にかかっているかは保留。
"unter"について
"unter"を「を」ってだけ訳すのってどうなのかね?
光文社古典新訳文庫でも岩波文庫でも"unter"を直接目的語のように訳している。すなわち「を」と訳している。
そうだとすると、なんで"unter"なの?という疑問が湧くだろう。
なんで原文が"von"とか"unserer"とかじゃなかったのか?
「結局は表象がひとつにされてるんだからいいじゃん」という見方もあるだろう
真面目に辞書を引いて、どの意味に該当するかを考えてみる
ドイツ語辞書(電子辞書)がどっかいったので
大きめの紙の辞書買うか?……本当に?(辞書アプリとかないかな)
支配下という意味では絶対にない
所属でもない
混在・介在(英語だとamong)じゃないかな
「私たちは様々な表象を持っているが、それらの中において」などと訳せそう
nämlichはどこにかかるか
たぶん、Einheitの詳細を述べるかたちでin einer zusammenbezogen werdenと言っている。
たぶんeinerはeiner Erkenntnisの略
「想定しうる多くの認識たちがそれによって一緒の認識にまとめられる」
dadurchはどこにかかっているか
おそらくgebraucht (werden)だろう
ひとつの直接的な表象ではなく、高次の(表象)が対象の認識に使われること によって
ここでは「概念」という表象の必要性が述べられていると思われる
「直観」だけだと不足してるで という主張
statt以下の具体的なイメージ
端的に言えば、直観と判断は異なる認識である、という概念による認識の強調だろう 見通しをメモ
機能=統一=判断ってなる
表象のあいだで判断は機能=統一なんすよ〜となる
判断が表象を統一する ってよりは、そもそも判断が表象に囲まれた?状態にあって統一なんすよ と
統一は判断という行為に先んじている。判断がそもそも統一。なので判断してから諸表象がおくればせにまとめられるわけではない。だから「判断が表象を統一する」っていう訳はまずい と。
カントが何を言いたいのかを考えると、判断のステータスは統一なのだ機能なのだ。だから、「悟性は結局のところ判断をするものだ」と言われる。だって、悟性にとっての機能は、感性にとっての受容性並みのものなわけだからね。
なんで、悟性→機能→統一→判断と、悟性→判断をつなげるためのプロセスなんだろう。