ベルクソン突発VC(3)ログ
日時:2023/3/9 22:30〜24:15(1h45m)
場所:Discord本部 空き室VC
読む範囲:平凡社ライブラリーpp170〜177175
企画概要
原文を朗読する
朗読後、適当にコメントを言う
意見、質問、言いたいことがある場合
VCに上がって言う
テキストに書く
終了時間は24時厳守
メモ
イェーイ
ログ助かりますかりふぁ.icon
哲学的直観の概要
簡単なお話
19,20世紀のフランス哲学者
生の哲学
読む (テキスト朗読:Ⅳ 哲学的直観 より)
第一段落 哲学の精神について
今日(1911年)の形而上学について
単純になり、生命に接近しようと努めている
対比の構造
言葉と精神との対比
複雑さと単純さの対比
(ベルクソンにおかなくても)対比の構造を見出すのは大事
単純を目指す
哲学的思考のなかにある本質的に自発的なもの
過去の哲学の結論と既成の知識の総体を包括するように見える綜合
出来上がった学説=クリエーションの結果
クリエーションの結果だけを見ていくのではなくて、自発的なもの…クリエーションの部分に目を向けていこう、とベルクソンは言おうとしている
既成のものの組み合わせになっている→繰り返し(反復)になっている
創造がない感じである
本質的に自発的なものは過去の反復ではない
単純、生命、精神
第二段落
第一段落の具体例
「複雑さのなかにひとつの秩序を見出す」
ある哲学の体系が、過去や同時代の哲学者などから影響を受けて作られている
過去や同世代のものを、オリジナリティを持って配列の組み換えを行ったものである
それを眺めてこういう材料、こういう組み立てでできたんだな~(悦に入る)
「私達って、こういうことやってるよね!」(皆で確認)
対比
哲学体系は完璧な建造物のように見える
がっちり組み立てられているもの
配列・組み換え・再構築
言葉の組み立てからなるのが「建造物」
過去から素材を持ってきて組み立てる
しんじゃう。
ひえ~
ここでは「合体させる」ぐらいの意味か。
組み合わせの言い換えくらいかな~って思います
第三段落
「しかし」第二段落全体を受けている
ある哲学を「それとはべつのものによって組み立て直し」「その哲学をその周辺にあったものと結びつける」
ベルクソンはこれを否定しない やさしいね
これがいいんだ!ってことじゃない、ベルクソンっぽさ
同時代の知見を検討している。一回で直感できる!という感じではない
一歩進むんで「内部に入り込もうと」努力すると、また姿が変わっていく。
哲学の学説を理解しようとする作業を「触れる」と表現している。
浸透、入り込むなど、一体になるようなイメージの言葉が使われている。
なんだか有機的、生命のイメージがある。
学説に対して触れていく
少し曖昧な言葉遣いをしている
イメージ的な言葉で一体どういうことかと思う
この講演の面白いところは内部に入り込むデモンストレーション(具体的実践)をするところ! ベルクソンの「内部に入り込む」は色んな著作に出てくる
「入り込むとこんなことが起こるよ」というのを示してくれる
哲学者バークリの学説で読み解き、“触れる”を実践してくれる スピノザも具体的にはやらないけど、ちょっと言及される(軽く)
スピノザはめちゃ複雑。読み始めると難解さに圧倒される
定理や定義が並んで証明完了!みたいなやつ
理屈っぽい??
でもスピノザの奥にも単純なものがあるんだよって話もしてくれる
後半なので今日読まないんですけどね。
無念
予備的な努力と、内部に入り込むという部分は、哲学書を読むときに参考になるかも 予備的な努力の楽しさ
あっこれの元ネタこれじゃん!
第二と第三の比較
第二では構造に悦に入るのがあるあるとして話されているが、第三で思索に触れ自然な浸透が起こるのはあるあると思ってなさそう 第二段落は学説、第三段落は思索
学説は言葉の集合だが、思索はまだ言葉になっていないこれから出来上がるもの
良い……
最初箱推しで、「最近創造ちゃんかわいいよな……」で創造推しになったオタクみたい ベルクソンは世界・宇宙の箱推し
第四段落
一点にまとまる(単純になる)を受けて
限りなく単純であるがために哲学者が言うことに決して成功しなかったもの
成功は絶対にない
複雑さに複雑さを、展開に展開を重ねて、自分の得た根源的直観の単純さにできる限り接近しようとすることでしかなかったのです。彼の学説がますます複雑になるのは、単純な直観を表現するために彼の用いる手段が、その直観にどうしても通約できないということによるのです。
めっちゃわかる~~ 死ぬほど複雑に書いた後に二行にまとまったりするし~~~cman.icon
不立文字っぽい。禅だと言葉での限界から、体験になってくる。 ベルクソンと響き合う部分があるが、ベルクソンは哲学者なので言葉を用いている
禅の方がより単純さにマッチしたアプローチな気がする。
想起cFQ2f7LRuLYP.icon
けれどもこの「何故に?」も答へるのは問ふのよりも困難である。と云ふ意味は必ずしも答の見つからぬと云ふのではない。寧ろ答の多過ぎるのに茫然たらざるを得ないのである。たとへば天満の紙屋治兵衛に、何故に彼は曾根崎の白人小春を愛したかと尋ねて見るが好い。治兵衛は忽ち算盤そろばんを片手に、髪が好いとか眼が好いとか或は又手足の優しいのが好いとか、いろいろの特色を並べ立てるであらう。僕の茂吉に於けるのもやはりこの例と同じことである。茂吉の特色を説明し出せば、それだけでも数頁に及ぶかも知れない。芥川龍之介『僻見』 (…)かう云ふ特色は多少にもせよ、一一「何故に?」に答へるものである。が、その全部を数へ尽したにしろ、完全には「何故に?」に答へられぬものである。成程小春の眼や髪はそれぞれ特色を具へてゐるであらう。しかし治兵衛の愛するのは小春と云ふ一人の女人である。眼や髪の特色を具へてゐるのも実は小春と云ふ一人の女人を現してゐるからに外ならぬ。すると小春なるものを掴まへない以上、完全に「何故に?」と答へることは到底出来る筈のものではない。その又小春なるものを掴まへることは、――治兵衛自身も掴まへたかどうかは勿論千古の疑問である。芥川龍之介『僻見』 「訂正」と聞くと久住さんはこれを想起する
哲学者のモチベーション
あまりに並外れて単純なためにその哲学者が言うことに決して成功しなかったものがあります。彼が一生語りつづけたのはそのためです。
ベルクソンの中には、訂正して訂正して語り続けるという哲学者像がありそう
彼って誰?
軌道修正して語り続けて……って二次元的な感じより、レベルが上がっていく感じがする
ベルクソン的には直観だいじ!!!
ここまで聴くとわかるように、「言葉」もこの講演のテーマのひとつになっている。
もはやこのアプローチとかは「言語化全般」に繋がるところがある
力を尽くして、接近しようとする動き
第五段落
(根源的)直観とはどんなものか
そんなんわかんないよ(そら一生かけて定式化出来てないんだからね)
直観の単純さと抽象概念の複雑さの中間にあるイマージュなら把握出来るかも でた!!イマージュだ!!!
イマージュは逃げ足が早い
「イメージ的なもの」として捉えてよい
が、イメージ一般ではなく、具体的な直観の周辺にイマージュがある。
イマージュの周辺に抽象概念があるイメージしてもらうとよさそう
イマージュをイメージしてもろて
言葉→抽象概念に置き換えている
直観の翻訳として抽象概念がある。
直観と抽象概念(言葉)があるからこそ間に空間が生まれ、その空間にイマージュが存在できる。
外から模倣⇔姿の中に自分が入り込む
三次元空間で立方体があったとき、それを二次元の人にどう説明するか。
影を二次元空間に映すとして……
影の形が四角だなあ、ひし形だなぁ、と思っているとたどり着けない
上の次元を想像しないと立方体にはたどり着けない
https://www.youtube.com/watch?v=0jBzTl4d_Xc
この動画好きかりふぁ.icon
第三段落で言われたものと関係がありそう
「外から構造物を眺める」でも構造物を再現出来ることはできる
これをこうやってこうしたら作れるのね。ふふふ……
でもそこに触れて、「そういえばこの中ってどうなってるんだろう?」と内部に入ろうとする
実は立方体は家だった
そうして初めて「あぁ、ここはこういう意図でこうされてたんだ」みたいな感じになる
このへんがまた言われているのでは
ベルクソンは趣旨一貫おじさんなので
第六段落
イマージュについて詳しく説明してくれる段落
ここ非常に面白いところ
イメージというと、ちゃんと思い浮かべられるものだが、ベルクソンのいうものはどっちかというと機能?
でも直観って使ってるから直観のことについて話してるのかもしれん
ソクラテスのダイモーンがどのように振る舞ったかはご存知のとおりです ←存じ上げないです。 ソクラテスが政治に参加するのを止めたのがダイモーン
なにかしようとしたときにやめろ!と言ってくる
皆さん(哲学者は)ご存じ
重要なので大きくした
「ありえない」
哲学者の思想がまだ十分に確立されておらず、彼の学説に何一つ決定的なところがないときにも、彼の最初の歩みはまずいくつかの事柄を決定的に放棄することにあったというのは明白ではないでしょうか
天動説地動説みたいな、常識になってる一般的学説と経験との混乱?
和歌の文脈だと正岡子規が古今和歌集を否定した
そういう感じの否定作用を感じた
cman.iconは直感型なのでめっちゃわかる。
「あ、これ絶対ダメだな」「ありえないな」って直観することがある
それで長文書いてみるとあんまダメじゃないなぁとなっても、「いやでもダメなんだよなぁ」ってなる
良心と似ている?(禁止の面で)
面白い点:直観が訂正の力として現れてくる。
物事に対しての訂正でもあるし、自分の書いた長文に対しての訂正でもある
自分が書いたものでも、外的になれば訂正の対象になる
直観をそのまま表したものになりえないから
良いものと良いものを並べられて選ぶと「こっちのがいいかも」になる
けれど、悪いものと良いものを並べられると「は?こっちのほうがいいに決まってる」「悪い方はありえないだろ」と、強い確信として出てくる。
言語を扱う人だと大体得るものがありそう。
良い~~cman.icon
次回予告
「発展」の話
今までの話の詳細を書いたもの
学説の発展について
哲学体系が出来上がるのはどういうことなんだろう?というのを考え直す
直観の否定的な力を前提として捉えてみよう
訂正によって出来てきたんじゃないか?という話
「つむじ風の比喩」というおもしろ比喩が出てくる。
後がたり
直観があることで哲学者の学説を説明しやすくなる
「なぜこういうキーワードが出てくるか」をこの観点から見れる
ただ「こういうキーワードあるよね~」ではなく
推敲とスクラップボックス
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