ベルクソン突発VC(2)ログ
日時:2023/2/23 22:30〜26:30(4h)
場所:Discord本部 空き室VC
本:「可能と現実」(in 『思考と動き』)
初回:ベルクソン突発VC(1)ログ
一時
Discord
以下、VCログ
久住哲.iconログありがとうございます!
かりふぁ.iconログ助かりまくる!
ベルクソンの文は名文と言われている
あらすじ紹介
2023/2/24付記:この読書会は先月1回行われ、今回が2回目。今回参加してくれた人たちは前月参加していなかったし、自分もおおかた忘れているので、あらためて、前月読んだ箇所を大雑把に紹介することにした久住哲.icon
VC前に当該論文を速読し、重要箇所にマーカーを引いた。あらすじ紹介の際はそのマーカー部分を中心に紹介した。
台本はないし、当然内容の精査も全くされていないので、cman.iconさんやかりふぁ.iconさんが残してくれたログに但し書きを付記していこうかと思う
テーマ
宇宙 で 続い て いる と 思わ れる 予見 不可能 な 新し さの 連続 的 な 創造
どちらかといえばベルクソンは「予見不可能な新しさ」に肩入れしている
(付記)……という印象はある。ただし、いくつかの留保がある。たとえば、どの分野でどういう振る舞いをするかによって事情は変わるだとか、形而上学が見損なっている(とベルクソンが考えている)点を強調する際に、いわばバランスをとるために、そちらに肩入れしているかのような言い方をせざるをえない、等々久住哲.icon
精神、創造性、クリエイティビティ
芸術、絵画など
実感として、常に新しいものが生まれている感じ
自由という言葉をその感覚に与える。
これの反対が「予測可能な繰り返し」
計算可能、とも
数学、科学、天体の運行などなど
ベルクソンはこれを否定しない。
「哲学は科学の上に立ってそれを導くよね」みたいな言説を批判している
この批判は「可能と現実」ではない別な論文でなされている。どこだっけな〜?
2つの対比がこの先も進んでいく
計算可能なものだけで全部わかるとはいえないよね、予見不可能なものがあるよね、
時間の話
予測可能とするのは、時間のある特性を排除するということ
予測可能とは、現在の時点から先のことがわかる、ということ
とすると、その間の時間は役割を果たしていない(必要ないよね)
スペンサーの思想の中では、時間がなんの役割を果たしていない
ベルクソン「そんなわけなくない?」
時間を私たちは認識しているし、与えられている。
時間とは……
「ためらい」である
「全てが一挙に与えられているのを妨げている」
時間を遅延させる、遅れさせる
映画は展開するまでもなく、全部のフィルムが出来ている。
なら、上映する前にフィルムを全部並べればいいじゃないか。上映する意味とは?
時間は、「そうならないようにしている」もの。
時間は創造と選択の乗り物ではないか、と言う
久住さん「まぁ正直何言ってるかはわからないんですけど……」
持続的な時間と空間化された時間
持続:待つときに“持続的な時間”が感じられる。
空間:空間化された時間=映画のフィルムみたいな
技術と創造の対比
技術は規則性についての知識(素材について、物質について、それをどう扱うかなど)
芸術家はそれに精通してないといけないが、それは反復の面であり、創造とはまた違う
予見不可能な新しさと、予測可能な繰り返し、その対比の実例が出てくる
芸術についても、知識についても、あるよね~って感じで。
今回の話
擬似問題(にせものの問題)についての批判
形而上学的な問題は問の出し方を間違えただけで、それにストレートに答えられないのでは。そもそも間違っているから。
誤って提起された形而上学的問題の起源に根本的な新しさの無視があるとするならば、錯覚的な用語で表現された存在しない問題の源泉には空虚から充実へすすむ習慣がある。
空虚を埋めていく、そこから充実に向かっていく
言葉遣いの問題だよね~
後期ウィトゲンシュタインと、日常言語をもとにするというところで近い(ぜんぜんちがうけど)
擬似問題には、「存在の理論」と「認識の理論」がある。
前回は存在の理論まで、今回は認識の理論から
存在の理論についてざっくり
なぜ存在するものがあるのか、という問
ライプニッツの問の形だと「なぜ存在するものがあるのであって、無ではないのか」
ハイデガーが形而上学入門でこの問を出す。元ネタがライプニッツ。
「無でもいいのに」という空虚から始まっている。
存在に先立って無があると考えるから問題が出てくるのだ。
ベルちゃん:「何もない」って日常で言うとき、別に何もないことないよね。
田舎の人が「この街には何もないからなぁ」っていっても、別に人とか居るし。
除去は代置を意味する。
何もないとみなすことは、期待しているものがないことに気づくこと。
期待していたものの代わりになにかがあるが、期待外れのものはあるとみなさない。
つまり、「何もない」は、「置き換わったものの価値を認めない」みたいな感じ
ほんとはあるけど「何もない」に代置してる
まず充実があるんやで。そこにあるものを無視すると「何も~ない」が出てくる。
「すべてのもの」の代置=無だけど、代置って「あるものをあるものに代置する」じゃん?
てことはすべてのものの代置って出来ないじゃん。ハイ論破。
すべてのものの除去という観念は、丸い四角という観念と同様の実在性、「声の風」の実在性をもつものであるか~
プラトニズム批判(プラトン的な考え方の批判)
プラトニズム:はじめに完成された世界(イデア界)があるという世界観
美術を見ても、美のイデアを思い出してるだけで美そのものじゃない、新しさはないよね。あとは堕落するしかないよね。
ベルクソンは充実が先なので、陽キャ
終わり方も陽キャらしい。
谷川俊太郎ってコト!??!
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レヴィナスもイリアの中に家を形成して住んで充実するのが先
本編開始
無秩序の観念について(認識の問題)
無秩序とは、ただ単に私たちが求めていない秩序のことである。別の秩序を発生させずに一つの秩序を除去することは、たとえ思考によってであるにしても不可能である。
製造の領域
予測可能な繰り返し、のほう
こっちで言えば無秩序っていうのは意味を持つ。
創造の領域に無秩序を持ち込もうとするとおかしくなる。
持ち込まなければ、こうした問題は消滅する。
秩序の観念は、通常は「機械論」あるいは「目的論」である。
無秩序は、ベルクソン的に無理やり対応させるなら、「飛び移りながら、もう片方を指す」という運動
それをすると、秩序が0=無秩序ではなく、秩序が複数あって、どんどん立場を変えていく(内包する)という矛盾になる。
遺憾の意を客体化すると、「無」が存在してくる。
それってあなたの遺憾ですよね?なんか明確な無とかってあるんですか?
のちの「ひろクソン」である。
「私たちの内部にあって唯一興味の持てる別の秩序の表象」とは?
機械論で説明できるものがなくなったとして、機械論で考える人はなくなったものが「唯一興味の持てる別の秩序」である
語順がよくなさそう。まず内部に唯一興味の持てる秩序があり、外部にそれとは別の秩序がある。
そのとき、外部に対して「無秩序だ」と言い始める。(興味がないもの=ないものなので)
絶対的な無秩序の観念が現実に対応するとすれば、それは飛び移りながら、自分の居ない方を指す運動である。
その飛び移る運動には秩序がある(機械論と目的論)
「『秩序不在』に付け加わる秩序」というまとまりで、それが背理を含んでいる。
可能性、レトロスペクティブ
おなかの空きみ
空腹が満腹に代置された表現
2つの錯覚
空虚の観念は充実の観念より少ない
実在の観念よりも多くの心的内容を伴っている
無秩序の観念は秩序の観念より少ない
秩序と戯れている
秩序の観念と充実の観念が1だとすると、無秩序やら空虚の観念も0だと思われている。
無秩序も空虚も1だし、1に+で余計なことしてる(戯れてる)よね
そんなことしなきゃいいのになぁ……
錯覚を支える考え方
可能なものは現実のものより少ない
8時にラーメンが出てくる可能性があるとして、実際に調理がされることによって実現される。
この「可能なものは現実のものより少ない」をわかるとより楽しめる
事物の可能性はその現実性に先立つ
継起する諸状態の各々の可能性にはその現実性よりも多くのものがある
継起↔同時
矛盾は同時(同時にAでありかつAではない、は矛盾で、できない)
継起は、あるときは喜んでいて、次の瞬間は悲しんでるみたいなやつ
通時的、共時的?→継起、同時はひとつを対象にしてそこに状態がどう乗るかみたいな気がする
持続に~
天体とか、計算可能なもの
でも進化とかって計算出来ないやん。
現実の像を過去へ投げ返す精神の働き
「しかし、あなたの言われる作品はまだ可能ではありませんよ」。──「でも、やがて実現される以上は可能でなければならないでしょう」。──「いいえ、可能ではありません。せいぜい可能であっただろうということが言えるだけです。」
code:ハイデガーの本来的な時間理解を斬るベルクソン
私たちは未来がやがては現在になることを知っていて、まぼろしは絶え間なく生じているので、明日の過去となる今の現在のなかに明日の像がたとえまだとらえられていなくても、そこにすでに含まれていると思うのです。これがまさに錯覚なのです。
ベルクソンはここでは、眼前存在のことしか考えてないと言えそうではある
現実性と可能性を並べてる時点でハイデガーはなんか言うかもしれない
ハイデガーちゃん「現実性が可能性に先立つって逆のこと言ったとしても眼前存在としてしか考えてないじゃん。可能性ってそういうものなんですか??」
形而上学のカテゴリを使ってるけど、ハイデガーはそこを乗り越えようとするんじゃないかという考察
かりふぁのハイデガー理解
死への先駆をして先駆的決意性を伴った現存在はみずからに固有な存在可能を既往し(過去に遡及して見出し)、瞬視(その固有な存在可能に向けて今を生きる)する。
上記のハイデガーの本来的な時間理解を斬るベルクソンではこれを錯覚としている(かも?)
記者の考え
「可能なものを入れておくなんだか知らない戸棚のようなものに将来の作品がちゃんと収納されている」
理想がやがて現実化する……受肉するみたいな考え方?
現代はあんまりしないから、共感しにくいかも。
可能なもの一個!って感じじゃなくて、なんか確率的な感じがする(現代)
ベルクソンがコミカルにして、過度に単純化してる可能性はなきにしもあらずかも
遡及的な装置
ベルクソンは回顧的遡及的な装置があることを自覚しようと言っている?
新しいものができるということを覆い隠している
進化論という理論が出現したら、それ以前には戻れなくなる
過去のすべてが進化論的に説明可能になり、遡及的である
進化論が出る前から、進化論があったように思われる
過去が説明可能になることで、「そうか!世界は進化論になってたんやな!」的な?
ほんとうはダーウィンが創造したんだけど、過去に遡及するがあまり、すでに存在していたもののように思われる
世界にあった進化論を、ダーウィンが見つけたみたいな感じになってしまう。
ここの存在論的な検討をしてるのかどうか(眼前存在とかが関わってきそう)
解釈学みたいなのが関わってこず、素朴な存在論的見方をしている
久住言い過ぎ説(ベルクソンはそこまで言ってない説)もある
可能の消極的意味は、「その実現に越えがたい障害はなかった」という意味でしかない。
不可能ではなかった、という「非-不可能性」
これは実現に先立つことはそらそう
ラーメンが家にあって、お湯を沸かせて、そういう環境があれば、まぁそりゃラーメンを食べることは可能である。
先在(Pre-existence)
積極的な意味での可能
運命付けられている、みたいな、先に在るものみたいなやつ
遺伝子決定論みたいな感じする。
遺伝子決定論に対してベルクソンのロジックを使えば批判できそう?
積極的な意味で可能な形で思い浮かべるのであれば、それは現実にする行為になる……みたいな
シェークスピアのハムレットを、限りなく“可能”な形で思い浮かべれたら、それはシェークスピアやん。
コロンブスの卵とかで、見たヤツが「あんだよ~!それならオレもできたやん!」って言う。
っていうのが、可能が過去に入り込むやつなんだけど、でも出来なかったやん?
出来たとしたらコロンブスだったしシェークスピアだったしダーウィンだったじゃん?
現実のものを作るのは、可能性を作るのであるみたいな話になってく
科学の話っていうか芸術の話
芸術作品(シェークスピア)の話から自然の話へ
そんな自然にいける?
草の葉そんな違うか?
理屈の付け方によっては出来事の説明が変わる……が
結局「やった」っていうのが先にあるだろ、ってワケ
いや、どう言えばいいのだろう。
序論訳注52:ジャンケレヴィッチの口癖になったのは興味深い。
だれ?
直感に対して、言葉がずれていってしまうという感覚がありそう
これがあることによって、文字の意味ではなく、ベルクソンの意図や考えを読もうとする感じになる
このへんは「哲学的直観」で話される
概念(言葉)だけだとずれちゃうので、概念と直観の間のイマージュをつかおう!
とりあえずイマージュは比喩と思ってもろて
イマージュ(比喩)をいっぱいだして、直観に近づこうっていう動き
cman.iconめちゃめちゃ完全に理解、好感度爆上がり
論理や言葉というより、もうちょっと違うもの
理詰め理詰めだったら晩年の神秘主義にはつながらないだろう
70で神秘主義にハマり、スペインの神秘主義者に興味があるのでスペイン語を勉強しはじめるエピがある(ソース不明)
ベルクソン(自由大好きおじさん)の立場
否定したいもの
自由とは、選択の自由である―ではない。
非決定性:なにものかに決定されているのではない。
自由ってのはもっとすげーんだぜ
べるちゃんいわく
可能性が自由そのものによって創造されたんだぜ
行為そのものによって可能性が生み出されてるぜ
可能性ってのは前にも言ったけど過去に反映されてくんだぜ
決定論の人にたいして、「選択の自由があるじゃん」っていうやつ
それは敵の理論的過程を受け入れて、自らの懐に引き入れてるやんね
もっとラディカルに行けるぜ
現実にあるものが自らを可能にするんだよ!
決定論と自由の対立が前提になっている。
自由についての啓蒙をやっているのではないか
じゃあなんで自由がそんないいの?っていうのが最終段落
プラトニズム批判
古代のイデア論
「時間が全てをだめにした」
近代の時間を重視しない理論
スピノザとかカントとか
新カント派への批判
これらは理屈の話をしていない。
事実(「時間」は直接に与えられている)の方に目を向ける
最後の段落
倫理の話で終わる
歓びと力
自由を大切にしたのは、歓びと力が得られ、良く生きることができるから
哲学的な気分として、ハイデガーとかは不安を根本的なものとして取り上げる(存在と時間)
対してベルクソンは歓びを取り上げている
陽キャだな~~~~
谷川俊太郎はただキラキラした世界で生きてるからけっこう嫌いだが、ベルクソンはサッカーに誘ってくれるので嫌いになれないcman.icon
生の哲学と呼ばれるのもそれがつながってくるのかもしれない。
力と歓びを得られるという有用性がある
力が満ち足りてるのいいよね、歓びが感じられるのいいよね、みたいな素朴さ
オプティミズム
世界がどういうものか
新しい創造は頭の中……ではないのでは?現実にしたがってね?
実は『物質と記憶』でそれをやってるんですよ
これにもイマージュが出てくる(でも概念と直観の間であるイマージュとは違います)
そういうことするな哲学者cman.icon
頭の中だけの世界みたいなのを批判してる
久住哲.icon反省
読んでいる最中に、「いま読んでるこの箇所が効くのは、最終段落を読んでこそなんだよな〜!」みたいに思ってしまい、論文の最後まで読み切ってしまった。これが良いか悪いかは別として、終了時間が遅くはなった。
後半になるとやはり口が疲れ、もつれた。cman.iconさんも朗読してくれて大変助かった。口がもたれるという点は諦めるべき点である。なぜなら、次の2つと口の疲労はトレードオフの関係にあるからだ。1つは、本を読み進めること。もう1つは、なるべくコメントを拾い、なるべくコメントを解決すること。
第1回と第2回の参加者が違っていた、という点も面白い。第2回は(参加者からしたら)急に途中からだったわけだが、成立はしていたと思う。
これは丁寧なあらすじ説明&解説があったからだと思いますcman.icon
二回目だけ参加したけど参加しやすかったすねばる.icon