エポケー
客観的世界について、あるいはその世界において何かが存在するという信念を私たちが持っているものについて、その信念を素直に判断に適用せず、いったんそういった信念を通用させないでおく態度。 このことによって、いわば視点の転換が起こり、自分というものが、世界がそれにとって通用しているところのもの(自我)として捉えられるようになる。
こうした自我は、世界がそこにおいて通用するところのものとして、世界に先行するものだということで、エポケーはそういった先行するものへと注意を向けかえるものだということで、これは現象学的還元(Reduktion)と呼ばれる。すなわち、その操作は、「存在する」という判断のより基礎的なところへと遡らせるものだから。 【言及】
Scrapbox上での言及
「ブリタニカ」論文 Ⅰ, 3
" 現象学者が己の意識の一つひとつを、あるいはまたその純粋な意識生活の全体を、純粋現象として手に入れようとすれば、彼は首尾一貫した判断中止(エポケー)をおこなう必要がある。すなわち彼は現象学的反省を遂行するさいには、非反省的意識のなかで働いているいっさいの客観的定立を一緒になって遂行してはならないし、それとともに彼にとって面前に「存在している」世界を判断のうちへ引き入れてはならないのである。しかし、この家、この身体、あるいは世界一般についてのそのつどの経験は、その固有の本質内実からして切り離しがたく「この家についての」、この身体についての、この世界についての経験でありまたそうでありつづける。これは客観へと向かっているどの様式の意識についても言えることである。それどころか、志向体験の記述は、たとえその体験が幻覚のようなものであったり空虚な判断であったりしても、その体験において意識されているものをそれとして共に記述するのでなければ、できるものではない。” 『現代思想』1978年10月臨時増刊号 (53-54)