現象学的還元
意識に与えられているままの意識内容とその与えられ方に立ち戻ること 山口一郎『現象学ことはじめ』(332)
自然な態度から哲学の態度への態度変更のこと
自然な態度:哲学に先立って世界の存在を自明なものとし、それを前提とする態度
哲学の態度:世界の存在は認識できないゆえに信仰されるとする態度。世界を経験へと関連づけ、経験の不完全性を踏まえたうえで、世界の存在様式を考察する。
『ワードマップ現代現象学』(290)
以下、『現代思想』1978年10月臨時増刊号 フッサール「ブリタニカ」論文より引用
現象学的還元
したがって(純粋「現象」、純粋に心的なものへの)現象学的還元という方法の本領は、まず第一に、心的村立一般の全体にかかわるものであれ個々の現象にかかわるものであれ、心的領域のうちに生ずるいかなる客観的定立に関しても、方法的にかつ厳密に首尾一貫して判断を中止する*というところ、第二に、多様な「現れ」を対象的統一性をそなえた現れとして方法的に把握・記述し、この統一性を現れのうちにそのつど生じてきてそれに帰属することになる意味存立の統一性として方法的に把握・記述するというところにある。” (54)
形相的還元
現象学的事実性がとるに足らないものであり、それが範例としてしか役に立たず、事実的な個々の心や心の共同体をアプリオリに可能な(つまり、考えうる限りの)それらへと自由にしかし直観的に変様するための基礎としてしか役に立たないとしても、この変様のうちにあって必然的に耐えぬく不変項へ理論的な視線が向けられるなら、体系的に信仰してゆくうちに、そうすることによって固有な「アプリオリ」の領域が生じてくる。そして同時に、本質必然的な形式的様式(形相-エイドス)が立ち現れる。[中略]たとえば、物体知覚の現象学は、事実上起こっている知覚や期待されうる知覚に関する報告などではなく、むしろ、それなくしては一個の物体の知覚も、また同じひとつの物体についての多様な知覚そのものの綜合的合致も考えられないであろうような普遍な構造的体系を取り出すものなのである。現象学的還元が現実的な内的経験やさらにはまた可能的な内的経験の「現象」への接近を可能にしてくれたとすれば、それに基づく「形相的還元」という方法は、純粋に心的な領域全体の不変な本質形態への接近を可能にしてくれるのである。" (55)
還元やエポケーの目的は?
その目的はわれわれを自然(主義)的独断論から自由にすること、われわれ自身の構成的(すなわち認知的意味付与的)寄与に気づかせることである。
エポケーと還元を遂行することは、時折主張されてきたように、心の内容と表象に焦点を当てるために実在的世界の探求を控えることではない。エポケーと還元は内部への排他的転回を伴わず、なんら喪失を含意しない。反対に、態度の根本的な変化は決定的発見を可能にし、したがって研究領野の拡大として理解されるべきである。(Hua 6/154,1/66)。フッサール自身はエポケーの遂行を二次元的生から三次元的生への移行にたとえている(Hua 6/120)。絶えず機能しているが、これまで隠されてきた超越論的主観性*が突如顕現の可能性の主観的条件として開示されるのである。 ザハヴィ『フッサールの現象学』(71)
*超越論的主観は、現出、現象性、顕現の条件と考えられる主観である。 同書(73)
フッサールは(カントやドイツ観念論の大部分とは対照的に)超越論的主観を抽象的、理念的、一般的な個人を超えた主観とは考えていなかったということが強調されるべきである。反対に、超越論的主観、あるいはもっと正確には、私の超越論的主観性は私の具体的で個体的な主観性である。[中略]
超越論的主観と経験的主観の関係は二つの異なる主観の間の関係ではなく、二つの異なる自己統握、第一次的自己統握と第二次的自己統握である。超越論的主観は第一次的構成的機能における主観である。経験的主観は同じ主観であるが、いまや世界の中の一対象として高瀬され内世界化された存在者として統握され解釈される。 同書(74-75)