1.現象学とはどのような哲学か:フッサール現象学の成立
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1. 「現象学」とはどのような哲学か
1-1. 現象学の思想史的背景
現代哲学の主要潮流の一つ
現象学運動の展開
社会学、宗教学、教育学、方角、精神病理学、看護学等にも大きな影響を与えた
自然現象を数量化して記述し、そこに数学的な自然法則を見出すという方法を取る
19世紀ヨーロッパで自然科学の発展を背景に広まった
哲学者、社会学の創始者
形而上学的思弁に対して、観察や実験などの経験によって実際に検証されうる知識のみを真に科学的な知識と認める立場 19世紀末になると実証主義の一面性が様々に批判されるようになった
たとえば、数学的な処理を重視する自然科学的方法によっては、わたしたちにありのままに経験される物事の「意味」を捉えることができない 意味は数量化されない
現象学の思想は、現代から振り返ってみると、このような数学的・実証的な科学的認識への批判的諸動向の一つとして成立したと見ることができる
現象学の根本動機の一つ
自然科学的な方法論の一面性を批判し、そこに潜む先入見を取り払い、ありのままの直接的経験に今一度立ち返ろうとするところにあった
1-2. 意味の成り立ちを明らかにする哲学
現象学
物事を数量化して自然科学的に捉える見方をひとまず棚上げし、
さまざまな「意味」を帯びて物事が直接ありのままに経験されるその現れ(=現象)にまずもって立ち返り、 そうした意味現象・意味経験の成り立ちを明らかにしようとする哲学として展開してきた 私達が物事を経験したり人々に出会ったりしたときなどに経験するある種の方向性のこと たとえば
重い疾患から奇跡的に回復してこれまでの生き方を見直した
あの人に出会って、これからの人生の方向が定まった
あなたの言いたいことの意味がようやくわかった
2. ある方向へ促される
苦しそうにうずくまっている老人を見て、思わず手を差し伸べた
3. ある方向への動きが促進される
本書の内容は自分の仕事にとって意味があった
4. ある方向への動きが妨げられる
重い疾患によって、趣味であり生きがいでもある海外旅行に行けなくなった
5. 方向がまったく見失われる
あなたが何を言いたいのか意味がわからない
故郷が津波に襲われ、そのあまりに悲惨な光景を前に、立ち竦むしかなかった
これらの意味は
数量化して捉えることができるようなものではないし、
一見してそう思われるような単なる心理的現象でもない
2で示した例は明らかに、心理面と身体面とにまたがって経験される方向性
これらの意味は、同じ物事や出来事であっても、個々人によって様々に異なって経験されうるという側面を持つ
単に主観的で、学問的な価値のないものとして切り捨ててよいわけでは決してない 1や3の例から明らかなように、わたしたちがこの世に生まれ、生きていく意味に直結しうる極めて重要なもの
2. フッサール現象学の成立
2-1. 数の概念の起源
学問上のキャリアは数学の研究から
『数の概念について―心理学的分析』 (1887)
数えるという心理的作用から考えるヴァイアーシュトラースの考え方を背景に、心理学によって数学の基礎にある「数」の概念の分析を行い、「数の概念の内容と起源」を明らかにしようとした 心に何かが現れる場合、その内容ないし対象は心にいわば内在しており(=志向的内在)、心はそれを志向しつつ、それに関係している(=志向的関係) 数の概念の起源
心が自らのうちに何らかの諸内容を表象し、その内容を捨象しながら取り集めて結びつけ(=集合的結合)、それらを「一つと一つと一つ…」と数えることによって、数の概念は成立する (Hua XII, 335, 336f.) 数の概念の起源は、まさにこの集合的結合としての数える作用、「諸内容を結合し包括し」「総体を成立させる心理的作用」(Hua XII, 333)に求められる
数えるという心理的作用がもつ、諸内容を取り集めて結びつける働き
ブレンターノの言う心に内在する諸内容ないし諸対象への志向的関係の一つ
2-2. 意識の志向性と意味のイデア性
1980年代初めごろには、内容ないし対象への志向的関係というブレンターノの思想においては曖昧だった「内容」と「対象」の関係について、ボルツァーノ(Bernhard Bolzano, 1781-1848)が呈示した「丸い四角」のような対象は存在しないが意味はもつ表象の問題をめぐって、表象の「内容」(ないし「意味」)と、表象が関係する「対象」とを明確に区別するようになる 表象の「対象への関係」は、表象の「内容」ないし「意味」によって「媒介される」(Hua XXII, 337f)
フッサールは、ブレンターノの「心に内在する内容ないし対象への志向的関係」を「心理的作用が意味を介して対象に関係すること」として次第に捉え直していく
その際、フッサールは上述の「意味」を、ボルツァーノの『知識学』とロッツェ(Roudolf Hermann Lotze, 1817-1881)のプラトン・イデア論解釈から決定的影響を受けて、「人間がその都度心に抱く時空的に限定された心理的なもの」としてではなく、「時空に限定されない永遠不変のイデア的なもの」として捉えた 当時のフッサールの関心が論理学の諸概念、諸命題の意味とその起源に向けられていた
意味がこのようなイデア的意味として位置づけられると、意識の志向性は心理的作用がイデア的意味を介して対象に志向的に関係するという事態であることになり、この志向性に数学や論理学の諸概念、諸命題の意味とその起源が求められる
数学的・論理学的諸概念、諸法則のイデア的意味の起源が、時空に限定された実在的な心理的作用に求められるということ
数学や論理学の諸概念、諸命題のイデア的意味を実在的な心理的作用が志向的に構成するということ
一見きわめて逆説的な事態
この困難な事態の解明こそ、現象学誕生の書『論理学研究』をフッサールに執筆させた決定的要因
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GPTによる解説
2-3. 『論理学研究』―現象学の誕生
第一巻『純粋論理学序説』1900年
数学も含め諸学の基礎をなす論理学の諸概念、諸命題のイデア性を明らかにし、これらイデア的な諸概念、諸命題を学的に扱う「純粋論理学」の理念を提示 数学的諸概念の心理学的な起源を問い、数学を心理学によって基礎づけようとする立場
ひいては諸学問を心理的作用の産物とみて心理学によって諸学を基礎づけようとする立場
例えば、矛盾律(Aは非Aではない)は心理的諸経験から導き出されたものではなく、誰がいつどのように心に抱いたかといった心理的条件には全く作用されないイデア的なもの 第二巻『現象学と認識論のための諸研究』1901年
イデア的意味を心理的作用が構成するという事態を解明する諸研究が収められた
現象学は序論において「純粋論理学の認識論的基礎づけ」のために要請される 現象学の誕生
純粋論理学的な諸概念、諸法則が単に与えられているということに満足してしまうと、命題の意味が曖昧になって歪曲されたり、あとから別の概念が差し入れられたりすることが起こりうる
「論理学的諸理念つまり諸概念と諸法則を認識論的に明晰判明にする」という大きな課題
具体的にどうするか
フッサールによれば、論理学の諸概念は「直観」のうちにその「起源」をもつ もともと「何らかの諸体験に基づく抽象」によって生じてきた
私達はそうした諸概念の「単なる記号的な言葉の理解」だけで満足してはならない
自ら「この抽象を新たに遂行」し「顕在的に遂行された抽象において与えられているこのもの」こそまさに「法則表現において語義が思念している当のもの」であることを「完全に展開された直観」に即して把握し確証しなければならない 「事象そのもの」に立ち返ってのこの把握と確証は、「繰り返し新たに」行わなければならない
「再生可能な直観(ないしは抽象の直観的遂行)との照合を十分に繰り返すこと」によって意味をその不動の同一性において確保するよう、努力する必要がある
こうしてこそ論理学の諸命題についての認識論的な「明晰判明さ」を獲得できる、とフッサールは考える
「Aは非Aではない」というイデア的な論理学的命題
それを単なる記号的な言葉の理解に終わらせないためには、まさにそれを思考した「起源」としての心理的抽象作用に立ち返り、実際に何らかの事物を見たり、ありありと思い浮かべたりして、完全な直観を伴わせつつ「Aは非Aではない」という事態を抽象し、しかもこの作用を十分に繰り返し遂行しなければならない
そうすることによって、イデア的命題の起源としての「思考体験」や「認識体験」の志向性が記述され、この論理学的命題が認識論的に明晰判明になり、基礎づけられる 思考体験や認識体験の志向性を記述する学として現象学が導入される
物理的な刺激が原因となって心理現象が発生することを理論的に説明する経験的発生的心理学とは異なり、
そうしたあらゆる理論的仮定を排して、思考体験や認識体験などの心理的作用の「直観」に立ち返ってそれを記述する「記述的心理学」であり、しかもそれは「完全に展開された直観」に即して、当の至高体験や認識体験を純粋に記述してく、「理論の単なる前段階」としての「純粋記述」の営みである 純粋記述によって意識の志向性という事象が記述され、理解されるとフッサールは考えた 思考作用が対象への方向を持ち、 自らのうちに要素として見出されないような「客観」を「表象し思念している」という事態 論理学研究第二巻には、以上のことが述べられた「序論」に続いて6つの個別研究が収められ、それらを通じて、イデア的意味を心理的作用が構成するという一見逆説的な事態の解明が行われる
最終的には、抽象作用の基盤としての、事物を知覚する端的な感性的直観作用に関する現象学的分析と、感性的直観作用に基づけられた「範疇的直観」および「普遍的直観」の現象学的分析によって、この事態は解明されようとしたのだと考えられる たとえば「この紙は白いのである(Dieses Papier ist weiβ)」という知覚命題の全体が直観によって充実される場合に、感性的直観たる知覚によって充実される「紙(Papier)」と「白い(weiβ)」以外の、「この(dieses)」と「~は~のである(ist)」という範疇的形式を充実する直観のこと
赤いものの感性的直観に基づけられて「イデア化的抽象」を行い、「赤」という一般者(イデア)を見て取れるような直観のこと 感性的直観の枠を超えて拡大されたこれらの直観概念は、のちにフッサール現象学を支える2つの方法の1つ、「本質直観」へと彫琢されていく 本書においては、これらを基づける知覚などが感性的直観の志向的構造にも眼差しが向けられたことのほうがより重要
感性的経験という私達のより基本的な経験の層の意識の志向性の働きにも目が向けられ、それに伴い、意味の概念も、感性的経験における意味にまで拡大されて考えらえるようになった 知覚において何かが何かとして意識に現れる経験が、意識の志向性の働きによるものとして捉えられ、何かとして知覚されるその内容が、「意味」として位置づけられたということ
数学や論理学の領域で意味を介して対象に関係することとして捉えられてきた意識の志向性は、今やより基礎的な感性的経験の層も視野に、意識に現れる何かを何かとして捉える意識の働きとして理解される
3. 『イデーンI』―超越論的現象学の確立
フッサール『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』(1913年)
第1巻「純粋現象学への全般的序論」(通称『イデーンI』) 中期の主著となった
3-1. 現象学的還元という方法
意識の志向性の働きという事象を明らかにするための方法
本書において重要
現象学的還元
『イデーンI』第2篇第1章第27~32節において、「自然的態度の一般定立」を「遮断」して「自然的世界の全体」を「括弧に入れる」手続きとして定式化される 自然的態度の一般定立
日常つねにすでに特に自覚することなく意識が行っている「そこに存在するもの」としての世界の定立
意識の志向性の働きという事象を明らかにするためになぜこのような方法が必要なのか
自然的態度においては、一般定立によって種々の意味を帯びて「そこに存在するもの」として意識に現れている世界やそのなかの事物、生き物、人間たちのほうに、つねに私達たちの関心が向かっているために(意識はつねに「何ものかについての意識」である)そうした意識への世界の現れのいわば手前で働いている、それら諸対象をそうした意味内容において捉えている意識の志向性が、素通りされ、気づかれないままになってしまうから
一般定立されていた自然的世界の全体を括弧に入れる
世界とその中の諸対象を各々の意味において定立している意識の志向性の働きに関心を向け、これを明らかにすることが可能になる
意識の志向性という事象そのもののほうから「方法」が立ち上がってくる
自分の意識に現れている「そこに存在している」対象への関心をいったん棚上げし、このものがどのように意識に現れているのかというその「意識への現れ」それ自体に関心ないし注意を向け返す操作にほかならない
この操作は、意識に現れている対象の存在への関心・判断を棚上げし、差し控えるという側面を強調する場合、判断停止を意味する古代ギリシア語「エポケー」を用いて「現象学的エポケー」と呼ばれる これに対して、現象学的エポケーによって関心を意識への現れに引き戻すことを強調する場合には、ラテン語の「連れ戻す」が語源の還元という語を用いて「現象学的還元」と呼ばれる どちらも同じ意識操作
3-2. 意識の志向性の構造―ノエシスとノエマ
現象学的還元ないしエポケーによって、意識の志向性の働きはどのように明らかにされるのか
フッサールは『イデーンI』第3篇第3~4章で、主として事物知覚を範例にしながら、意識の志向性の構造をノエシス―ノエマの相関関係として詳細に明らかにし、さらに第4篇第1章ではノエマ的意味と、その対象への関係についても考察を行っているが、その要点は以下のようにまとめられる
庭にある花咲き誇る林檎の樹を知覚している場合、現象学的エポケーを遂行して、樹木そのものではなく、この樹木の意識への現れに注意を向けると、そこに見出されるのは、
「知覚され意識に現れている限りでの林檎の樹」
空間的現実のなかの一存在者(これは括弧に入れられている)ではなく、この知覚において意識に現れている限りでの知覚内容(知覚の志向的相関者)であり、これをフッサールは「ノエマ的内実」ないし端的に「ノエマ」と呼ぶ 「意識に現れたものを林檎の樹として把握する意識の働き」
意識に現れたものを「林檎の樹」という「意味」において把握する知覚意識の志向性の本来的な働きであり、これをフッサールは「ノエシス」と名付ける ノエマはその全体構造をさらに分析すると、「物質的事物」「植物」「樹木」「花咲き誇る」といった意味内実を具えた「一本の花咲く樹木」というノエマ的意味を核にして、たとえば「生身のありありとした・原物の」といった明晰さの度合いを示す性格や、現実に存在するといった存在性格を伴っている
これに対して「ノエシス」の働きも、詳しく分析していくと、意識に連続的に与えられてくる色などの多様な「感覚与件」(ヒュレー)を諸々の内実を具えた「一本の花咲く樹木」という統一的な意味に向けて「統握する(auffassen)」という構造を具えており、これらヒュレーと統握の具体的統一が、当の樹木をそのような意味において意識に現れさせる「現出作用」である ノエシスとノエマの相関
意識に何らかのヒュレー的与件が連続的かつ多様に与えられてくると、それらを何らかの意味(例えば「一本の花咲く樹木」)に向けて統握するノエシスの働きが起こる
その具体的統一である「現出作用」によって、相関的にノエマの側には、様々な意味内実を具えた(「一本の花咲く樹木」という)ノエマ的意味が何らかの明晰さの度合いの性格(例えば「生身のありありとした・原物の」)を具えて現れる
この現出作用による現れに「理性的に動機づけられて」ノエシスの側で「定立作用」がなされ、相関的にノエマの側に何らかの「存在性格」(たとえば「現実に存在する」)が与えられる
3-3. 超越的現象学の確立
フッサールは、世界と世界内のすべての対象が意識の志向性によって「意味」として構成されると考えるようになる
「現象学は、自分が遮断する自然的世界全体とすべての理念的諸世界を…『世界意味』として包括する」 あらゆる認識を、その究極の源泉である認識主観に遡って問う哲学的動機―「認識主観が自らを超越した世界をいかに認識しうるのか」を認識主観に立ち戻って問う認識論的で超越論的な動機―が、デカルトに始まる近世哲学を貫いていると見ていたが、自らの現象学こそ、近世依頼のこの認識論的・超越論的問題設定を正当に受け継ぎ、これを解決しうるものだと信じた 現代におけるケアの現象学の展開までの歩みをめぐろうとする本書において私達がまずもって学ぶべきこと
フッサールが『イデーンI』において、事物知覚のような私たちの経験の基礎的な層においても、普段はそれとして自覚されることなく、意識の志向性がさまざまに働いていて、まさにこの意識の志向性によって、経験されるものの意味が成り立っていることを明らかにしたということ
私達はいわば、意識の志向性によって彩られた「意味」の世界に生きている
フッサールが示したのはノエマ的意味の成り立ちにおける方向性
ノエマ的意味が意識に連続的かつ多様に与えられるヒュレー的与件をある統一的な意味に向けて統握するノエシスの働きによって構成される