イタローの文学へのレター2
from イタローの文学へのレター
イタローの文学へのレター2
『ドン・キホーテ』には、主人公の狂気を助長する人たちが出てくる。
ドン・キホーテの親しい友人や立派な善人もそうする。悪人も出てくるが、悪人はわりとストレートにコミュニケーションする。殴り合ったり罵り合ったり。
狂気の助長は、場を盛り上げるための「愚弄」と表現されている。「ちょっと浮いてる人に悪ノリ」的なアレだろうか。まあかなり浮いているけれども。笑いと悪意の入り交じったメカニズム。
そしてドン・キホーテは聡明であり、完全に狂っているので、自分の世界観と矛盾することは言わないし、その限りにおいては慎重に考える。 悪ノリが過ぎると、ちゃんと「ここつじつま合わないよな」「違和感あるよな」というのに気付く。ただの金盥を兜と思い込みつつ言い張りつつ、「その荷鞍は飾り馬具じゃなくてただの荷鞍だろう」とちゃんと判断したりする。
ちなみに後編は、『ドン・キホーテ前篇』が出版されてベストセラーの世界線。みんなドン・キホーテを知ってる。世間の方がドン・キホーテに悪ノリを繰り出しまくるが、そんな状況にかえってドン・キホーテの方が懐疑的になる。いちばん狂ってたはずの人が「ホントにそうなのか?」となる。
『ドン・キホーテ』は笑劇としても読めるし、世間の残酷さへの風刺としても読める。差別と悪ノリと暴力と愚弄と悪意と生命力と機知と本音と建前がまぜこぜになってる。人によっては笑えないし、悲劇的に読める。人によってはツボにはまって、笑い転げる。
大江健三郎『憂い顔の童子』は、長江古義人という大江健三郎がモデルの人物がスラップスティック的に故郷で騒動を起こす。虚構のなかで、自身がドン・キホーテになってしまうわけだ。
作品自体も、文脈が複雑。アメリカ人の批評家が登場して、長江の作品を批評したりする。
イタローの文学へのレター5