イタローの文学へのレター1
from イタローの文学へのレター
イタローの文学へのレター1
『盗賊』 三島由紀夫
快作! 若さと老獪さが混じり合った初期三島特有の独自性が滲み出てゐる。流麗な文章に一気読みさせられてしまったが、またじっくりと読み直したい。
『沈める滝』 三島由紀夫
決定版全集で読了。これは『美しい星』とかと並ぶ、何度も読み返すだろう小説だな。とにかくすごいや。
『失われた時を求めて』第三巻
非常に不思議な体験だった。長い長い時間をかけてゆっくりと読んだ巻なのに、だいたいの箇所はなんとなくおぼえている。それはこの小説の描写が精細で、正確で、心に深く刻まれるように書かれているからだろう。芸術についての洞察は、豊かな感覚のたまものだ。また、さまざまな事柄についての思考の流れは、読んでいるうちにまるで海を漂っているかのような感覚にしてくれる。物語のテーマは、初恋。といっても初々しさと苦々しさを練り上げた、とびきりのエピソードである。読んでいるあいだは退屈だったのに、読み終えてみると、いい思い出だ。
安部公房『飛ぶ男』新潮文庫
二時間くらいで読んだ?
未完の短い遺作。関係する短編「さまざまな父」も併録。何気なしに読みはじめたら、一気読みしてしまった(こういうパターンが多い)。
正直な話、安部の作品でいちばんおもしろかったし、「さまざまな父」と福岡伸一の解説を読んだらなんとなく鳥肌がたってしまった。
本編は、姿を見せない父が暗躍する中、ひきこもり気質の兄と空を飛べる超能力者の弟の兄弟が妙なドタバタ劇を繰り広げる話。短編は、姿が見えない父が息子に空飛ぶ薬を飲ませようとする話。
壮大なテーマの大作になるものだったらしいが、安部公房の面白さとすごさを同時に味わった本だった。
『新古今和歌集』
古今の和歌が選ばれ並べられているのだが、たとえば春を詠むにしてもひとつの歌で春全体を詠むのではなく、逆に春を詠んだ歌の総体で春というものを暗示している。
また、ここにはエスプリの利いた会話がある。過去の歌にたいし今の歌が応答をしたり、その応答にむかしの歌が応えたりしている。
そしてなによりも、時たま、それまでの歌をつなげたり、さっと話題を変えたり、イメージを裏返したりする転換点となる歌がさりげなく置かれる。さらにいえば、全ての歌がそのような転換点であり、結節点なのだ。部分と全体が照応しつつ展開しつつ収斂する。
たえず時は流れている。歌が推移するにつれ、季節も人の心もうつろう。
……驚きかつ愉しむべきはこの集が歌の名手でもある複数人の手によりあつめられ、幾多の編集操作を受けたことだろう。芸術家が、文学者が個人のくびきに戒められる苦しみから、この集は颯爽と飛翔している。そしてその陰翳は、微妙なゆかしさをよりたたえている。
現今のわれわれにはよりなじみのふかい、西洋古典音楽の語彙で表せば、ひとつの交響曲でもありえるし、小品集でもありえる。
このアンソロジーじたいがひとつのおしゃべりであり、或るテーマの表現であり、また言語芸術における技巧の粋を尽くした挑戦であっただろう。そしてそれは恐るべき精緻さまで達している。
古典・和歌のみならず、文章芸術に関心がある人にはぜひともおすすめしたい。その道の玄人には玄人なりの注文もあろうが、素人なればこそ素人なりの悦びが生まれる、そのような書だ。
歌がテーマに沿って配置されている。
美術館の、回廊に絵がかかっているような書です。
配置が見事だと絵を学術的に史的に深く知らなくとも楽しめるし深く知っているとより愉しめるしそれらを相対的に遊ぶと痛快なように、隣り合う歌も歌人どうしも、もっといえば集内外の歌と万象が交信しているように見える、あるいは交信が見て取れるように企んである。
和歌を知らなくても十分楽しめるし、知っていればより愉しめるのだろう。
ときにクラシカルでときにアヴァンギャルドな美術館を封じ込めたような本なのに、お堅く難解な近づきにくい古典とまとめられてしまっているとしたら本にも読者にも損なことは間違いない。
個人的おすすめの読み方は、順番に配置関係に注目して読んでいくという方法です。各歌が音楽のように共鳴している。慣れるまでは好きな歌を選んだりするのは後でいいとさえ思う。
古今集や新古今集のような勅撰集の場合は、命じられた選者が精選して配置したものを帝がまた見るようなのですが、そうすると編者の目も手も複数あるということでただでさえ多声的な歌のかずかずに複眼的な編集が加わることになる。
さらに新古今に選ばれた歌の特徴は観念的・幻想的ということで、言い換えれば多義的・呼応的であるともいえるかと。
新古今の歌の世界は、かなり限定された(権力も失いかけた)朝廷の世界であり、それだけみると閉じられた文学世界のように思われもしそうですが、上記の経緯やその歌の内容、配列を加味すると、歌人・編者の「魂胆」「思惑」が支配というよりは隠微に巧妙に暗示されることで(薄まるのではなく)より拡がりを持った、むしろ開かれた場であるといえるのではないかとも思われます。
新古今は1970首前後の歌が収められ、勅撰集最大のものだそうですが、全体を或る強力な原理が支配しているというより、歌どうしの持つ淡い磁力によってほのかに幽玄に発光しているような、そういう印象をもちます。
ちなみに命じた後鳥羽上皇は、流された先の隠岐でも編集を続け、1970首ほどから400首ほどを削除したそうですが、自分の歌も取り除いたりしている。堂々たる武の帝のイメージがしていたが、(おそらくみやびの時代の最終の置き土産としての)歌に執念を燃やす文の帝で(も?)あった。
読んで体感していくうちに歴史を見る目も徐々に変わっているような心地がします。
ボラーニョ「エンリケ・マルティン」
パッとしない話から始まって、最後でグーッときた。いい短編でした。人生はこうでしかないよなア。悲しくて、あとで真実がわかる。でも自分も出来事の中にいる。生きているかぎり。
直前に読んだ『青の時代』の、「速度を失ふと共に失はれがちな真実があるもので、まはつてゐる最中の独楽にしかあらはれぬ虹のいろを、真実の色彩ではないといふ理由はない。」という一説と共鳴しました。
三島由紀夫『青の時代』読了。
この作家、印象としては、出だしから中盤くらいまではのっそり進んでいくんだけど、最後まで読むと他にはない興奮が待ってるタイプ。
社会と疎外して疎外されている男が詐欺を行う話。教養小説のような始まりから、ピカレスクな知能犯罪小説に転換していく。愛宕(おたぎ)、易、輝子など、キャラクターがどれも憎めず、魅力がある。たとえば『鏡子の家』にも表れるようなポップで乾いた街の描写など、のちの作品にも関連するようなセンテンスが散りばめられ、その点でも興味深い。偽悪でも、偽善でもなく、ひたすら自らに課した戒律によって生きようとする主人公や、各々の「自由」を模索する登場人物たちが活き活きと描かれており、すこぶる「健全」な小説だと思った。かなり好き。
『古典文学読本』にある「変質した優雅」という文章
「大原御幸」という能を題材に、寂光院という生来の優雅な存在が壇ノ浦なる地獄を見ることで「変質」してしまった上で、いかにそれを超越的に眺め、表現するか?という問題について分析した短文です。
寂光院は宗教的見地によって「見る意志」を獲得する。そして語る。このぎりぎりの状態に、芸術における優雅と血みどろな人間の実相と宗教の一致がある、という考察。
文末の、現代芸術における優雅・実相・宗教の「変質」した姿への批判も、苦々しい三島の実感が感ぜられGOODです。
『鼻持ちならないガウチョ』
著者は旅で見たこと・考えたこと・感じたことを執筆の糧にしているが、それを真正面から書こうとはしない。むしろ読者に旅をさせる。あるいは旅の仕度をさせようとする。彼は世界の奥深いどこかに、混乱をもたらす、危険な陶酔のあることを知っている。彼はその周りを回る。旅する。そして病む。病んだ旅人は本を書く。作家になる。読者を旅人にするために。読者は旅人になり、世界の奥深いどこかに、混乱をもたらす、危険な陶酔のあることを知る。彼はその周りを回る。旅する。そして病む。病んだ旅人は本を書く。作家になる。死と文学の旅は続く。
ボラーニョ「鼠警察」「アルバロ・ルーセロットの旅」
鼠警察。文字通りそのままネズミの警察が主人公。凶悪な殺鼠事件が発生。警官ペペは独り捜査に乗り出す。明らかになるネズミ社会の深層。
旅。ブエノスアイレスの作家ルーセロットは売れない作家。だがフランス映画に小説の内容を剽窃される。やがて売れっ子になりパリの監督に会いにいく……。
ボラーニョは、ブンガクだか世界だかもっと別の何かだかの肝心なところをちゃんとおさえた書き手なんだと、再確認しました。『2666』しかり、「ジム」しかり。「通俗的」なガワをしっかり活かすことで現実に肉薄してるのかなあと思ったり。
イタローの文学へのレター6