イタローの文学へのレター6
from イタローの文学へのレター
イタローの文学へのレター6
チリ生まれの小説家で詩人のロベルト・ボラーニョの小説「ジム」を読みました。
正確には、感想を書くために幾度か読み返しながらこの感想を書いています。
何か気の利いたこと、ウマいことを言おうとして。
「ジム」は、短い小説です。3ページしかありません。
小説がとても長いこと、あるいはとても短いということは警戒するべきことだと思います。
作家が、伝えるべきことを伝えるために、読者を罠に嵌めるためにその分量でいいと納得したということだからです。
気の利いたこと1。
あらすじはこうです。
「ぼく」は、メキシコシティの路上で、友人の「ジム」を見かけます。
ジムは常々こう言っていた。
「おれは詩人で、途方もないことを探し出して、それをありふれた日常の言葉にしている」
さて、ジムは、路上で男が火吹き芸をしているのを見ていました。
他の観客が去っても、彼はじっと見つめていました。
路上には火吹き芸人とぼくとジムしかいないかのようでした。
ぼくはジムに話しかけますが、彼はうわのそらです。
芸人は炎の蛇を吐き出している。
ぼくは焼け死んでしまいたいの?とジムに冗談を言います。
ぼくはその瞬間、自分の言葉が真実であるとわかる。
ぼくは懐かしいアングラの歌の一節を思い出す。「クソッタレの呪われし者」
メキシコの呪いに捕らえられた彼は、そのとき自分の幽霊と向かい合っていたのだ。
ぼくはジムとともにその場を立ち去ろうとしますが、ジムは拒否します。
すると、頬を膨らませた火吹き芸人がこちらへ近づいてくる。
不吉を感じたぼくはジムを無理やり連れてその場を去る。……
それから、二度とジムと会うことはなかった。
そういう話です。
こうしてあらすじを書いて、書きながら、もうこの小説について気の利いたことを言う必要はない、ということに気がつきました。
この短い作品は、詩人の生き方を示していると思います。ボラーニョは、この掌編で全ての詩人はクソッタレの呪われし者であると言っています。
また、もっと多くのことが、あらすじで割愛した細部が、さらに詳細で拡がりのある暗示を構築しています。しかし、私にとっての要点は三つです。
つまり、詩人とは気の利いたウマいことを言う生き方ではない。
小説家は詩人にクソッタレの呪われし者であるという賛辞を贈る。
読者が詩人であれば、この3ページを読んできっと呪いを理解し、呪われるだろう。
だから、詩人ではなく、クソッタレにも呪われし者にもなるのが怖い私は、気の利いたウマいことを言おうとしているのです。
ですが、ボラーニョは私に少なくとも3つのウマいことを言う隙を与えてくれませんでした。
それが作家の巧みな悪意です。3ページの毒。文学の危険。
私は詩人になった気で路上の火吹き芸人を見つめるでしょう。
ロベルト・ボラーニョの『2666』を読み終えました。
読み終えて、かつてない興奮を覚えました。これはすごい!と思いました。
内容は難解ではありませんが複雑なので、省略します……笑
とにかく、古典と並べても遜色ない文学的な馥郁たる芳香と、きわどく煽情的な娯楽要素が見事にマッチして、異様な迫力を持った鈍器本(二段組で本文850ページほど)でした。
おすすめかと問われると、二つの矛盾した感情が沸きます……扱う題材が非常に強烈なので、人を選ぶだろう。という考えと、読書や文学が好きな人(これもまさに『2666』のテーマなのです)にはぜひ読んでもらいたい!という考えと。
とりあえず、この面白さとヴォリュームと、行間から溢れ出る滋味は、ほかの作家や作品を引き合いに出すのが野暮に感じられるほど新鮮だったので、それだけはお伝えしておきます!!
『三島由紀夫レター教室』
色々なシチュエーションでの手紙をコミカルに軽妙に紹介しつつ、その手紙がひとつのストーリーになっている小説。
手紙の文面がそのままキャラクターの性格になっており、こんがらがってモザイク模様を描いている。
『愛の渇き』三島由紀夫
醜悪と退廃が忍び寄る戦後の日本。未亡人が、イワンのばかみたいな青年に恋する。嫉妬の苦しみが主題。複雑な心理と単純な肉体の二項対立を中心に、ものすごい複雑な要素をシンプルな結末の一点に収束させていく。そして表れる深淵なヴィジョン。エンタメにしてジュンブンガクな、読むジェットコースター。主人公の懊悩が艶やか。馬鹿にされる知識人への筆致が達者で愉しい。祭りの場面は見所のひとつ。脂の乗った充実っぷりで、また読み返したらガラッと細部の印象が変わるだろう。余談。1950年って、これ25歳で書いたのかよ。すんげえなあ。
フロイト『モーセと一神教』
濃い本。
モーセが実はエジプト人であり、エジプト由来の唯一神を掲げ、ユダヤ人と後に呼ばれるようになる民を引き連れエジプトを脱出し、そして民に殺されたのではないか……という仮説から、「ヤハウェの宗教」が「抑圧されたものの回帰」として「モーセの宗教」になってゆくメカニズムを、精神分析の手法で試みた書。
個人心理学と集団心理学、精神分析と宗教の結節点を見出そうとしていてヤバイ。第一と第二論文は歴史ミステリー的でわくわく。特に第三論文の第二部の途中は読んだことのない感触で頭が痛くなった。
おススメ。
三島由紀夫短編集『ラディゲの死』に収録の「魔群の通過」
さいきん読んだ長短編ふくむ小説でいちばん気に入った。
戦後の退廃的なムードのなか、没落した名家・蕗屋家でおこなわれる、ブルーフィルム鑑賞会。
そこで出会った一癖も二癖もある参加者たちは、欲望とプライドにつき動かされ、あやしくうごめく。
そんな彼らを冷徹な目で見つめるのは、実業家・伊原慶雄。そんな彼も「魔群」との関わりによって日常をかき乱されてゆく。
肺病やみの歌手・伊久子、売れない作家・曾我、異様な存在感をみせる蕗屋恒子など、戦後的な「魔」がくりひろげる人間模様は、伊原の目を通して「現代」を逆照射する。
技法としては、自在な文体、蕗屋家での耽美的な、懐古的な雰囲気から、市井での戯画的な、日常的な生活感との対比が鮮明。曾我の描き方など太宰の「ダス・ゲマイネ」を連想させて楽しい。
もちろん同作家の、群像劇としての、『禁色』『鏡子の家』『豊饒の海』をはじめとした長編と比較しても発見があるだろう。
モチーフとしては、「カネ」は三島文学のなかで案外に見過ごされているテーマなのではないかと思った。
読み終わってから、20代で書かれた小説だと知り、ただ事ではないとおそれいった。
ちなみに山田風太郎は、水戸藩の天狗党をテーマに同名の長編小説を描いているらしい。三島由紀夫も水戸学には関心を寄せていたという。
『禁色』
老作家が美しい青年を使って自分をコケにした女性たちに復讐する……退廃的で背徳的な物語かと思いきや、後半部の展開に裏切られ、不思議な興奮と爽快感を覚えた。老作家の披瀝する美の哲学は非常に精緻で手ごわい。それが老作家自身の破滅と関わっているのならなおさら事は複雑だ。だが構成と文体はあくまで豪奢にして簡潔であり、エスプリの効いたちょっとした愉しみとして享受できる。ところがこの親しみやすさが毒なのだ。明朗な古代の彫像がそのまま昏い情念の深淵に接続しているかのように、この作品には極めてポジティヴなものとネガティヴなものが表裏としてある。
三島の本は、頻繁に「贋物」テーマにしている。この世の全てが贋物だと気付いてしまった人間が、どう生きるべきか、というテーマ。たぶん重要なのは、じゃあ何が本物なのか、正しいのか、というところではなくて、贋物が贋物ではない何かになれるのか、少なくとも到達できないにしろ目指さなくてはならないんじゃないか、という面白い視点と実践で作られている点じゃないだろうか。もちろん失敗するのだが、そこが重要なのではない。そもそも全て贋物なのだから。変に希望を語るよりか、わりと前向き。
三島由紀夫「三熊野詣」
登場人物の一人は折口信夫がモデルだという
辛辣な人物描写は太宰治の筆致を髣髴とさせる
「伝説」についての物語。とても良い読後感だった。作者は退廃的な気分で書いていたらしいが笑
イタローの文学へのレター2