『フランケンシュタイン』の読み方の可能性
光文社古典新訳文庫の解説(小林章男)に書かれてあるもの 作者メアリー・シェリーの心の中が投影されていると考え、主人公ヴィクター・フランケンシュタインが何の具現化を捉えるもの。伝記的批評。 メアリーの父ゴドウィン
夫パーシー・シェリー etc)
この小説を同時代状況の象徴的産物とみなすもの
ヴィクターが「資本家」、怪物は「労働者階級」であり、だからこそヴィクターは(反逆的な)怪物が増えることを拒否する(ということは、『フランケンシュタイン』自体が労働者階級による資本家への反逆の物語という読みか?)。マルクス主義批評。
文字通り、作品に道徳的・教育的観点から論じようとする試み
ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものとテーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあるが、このようなジャンルに関わる諸問題を扱うアプローチ。
ロマン主義文学であるという読み
ゴシック小説であるという読み
リアリズム小説であるという読み
読者によって作品に対する反応の仕方が異なることに着目し、テクストが何を意味しているかではなく、テクストが読者の心にどのように働きかけるかという問題に焦点を置くアプローチ。
作品中で「読む」という行為が扱われている箇所に着目し、テクストを読む読者の行為との連続性を示す方法
以下のような作中人物がテクストを読む行為が読者にどのような反応をもたらしているかを比較するということ?
フランケンシュタインがアグリッパの著作を読んで衝撃を受けている
怪物が自分の読書体験を語る
怪物がフランケンシュタインの4ヶ月の日記を創造主に対して強い憎悪を抱く
フランケンシュタインがエリザベートやアルフォンスの手紙を読む
ウォルトンと姉マーガレットが文通している
語りの入れ子構造が読者に及ぼす作用
現代の批評理論の中で最も難解と呼び声が高い。テクストが互いに矛盾した読み方を許すものであること、つまり、テクストとは論理的に統一されたものではなく、不一致や矛盾を含んだものだということを明らかにするための批評。テクストの異種混淆性や意味の決定不可能性を見出そうとするアプローチ。この際、文学テクストに重きを置き、作者や時代背景など作品の外部を持ち込まない。 この作品では、善・悪、光・闇、生・死、美・醜、創造主と被造物などの二項対立が存在するが、作品内でそれらの境界がいかに消滅し、対立に含まれる階層がいかに転覆されているかを見る。
決定不可能性
脱構築批評の主眼は、作品には中心的な意味がないということを証明することにある。このため、テクスト同士がいかに矛盾し合いどちらが正しいかが決定不可能であることを示す。
文字通り、精神分析理論とその用語によって文学作品を解釈しようとするアプローチ
フロイト的解釈
ラカン的解釈
ユング的解釈
ユングの深層心理学における「原型」という考えとフレイザーの文化人類学の影響から生まれてきたものであり、個人や歴史を超えた人間経験の原型(例えば創造、不滅、英雄、探求、楽園追放、闘争、復讐など)を、文学作品の中に探し当て分析しようとする批評 『フランケンシュタイン』は副題として「現代のプロメテウス」と名づけられており、神話的性質を多分に含んだ作品。 旧時代の性差別を暴く批評。例えば、男性作家が書いた作品を女性の視点から見直し、男性による女性の抑圧がいかに反映されているか、家父長制的なイデオロギーが作品を通していかに形成されているかを明らかにするなど。
『フランケンシュタイン』の作者は女性
作者は出版当時、自分の名を伏せている
作者メアリーと夫パーシーとの関係
夫は良き理解者であったが、初版の前書きを書いていたり、メアリーの原稿ゲラを校正していたりと謁見行為が目立つため夫婦間に優劣関係があった。またメアリー自身が書いた第三版の序文では「作品はまったく夫に負うものではない」としており、女性作家としての復権宣言が見られる。→ディオダティ荘の怪奇談義 作品内で描かれる女性たち
この作品にも男は外の公的世界で、女は家庭の私的世界で生きるべしという家父長制のイデオロギーが見られ、登場人物の女性たちはそれを容認しているなど。
怪物という存在
怪物は男によってこの世に産み落とされ、男を破滅させ人類に死をもたらすものとして嫌悪され、居場所を追われ、名前すら与えられない存在であり、女性の楽園喪失の物語を描いているのだと読むフェミニズム批評家もいる。
母性/産むことという観点
男・女という一般のカテゴリー自体に疑問を突きつける批評。性別とは社会や文化によって形成された差異・役割であると見る。LGBTなど生物学的・社会的な男女区別の基準から逸脱し、従来周縁に追いやられていた存在もジェンダー批評の対象となる。
『フランケンシュタイン』は男同士の関係を描いた作品である。
『フランケンシュタイン』では女性の登場人物の存在が希薄だが、レズビアン的な観点による批評が存在しないわけではない。
マルクス主義批評の特色は、文学テクストとは、それ自体の内部からすべての意味が引き出せるような完結した存在ではなく、ある特定の歴史的時点に生じた「産物」であると考える。ある文学テクストが生まれてくる、その生産に不可欠の政治的・社会的・経済的条件が絡み合っているその諸条件を探究し、それらの関係において作品の意味を解明しようとする試み。
時代と歴史状況
この作品が生まれた頃は、フランス革命直後で、その影響によってイギリスがかつてない政情不安定に陥っていた時期。作者は革命の雰囲気が漲るイギリスの危機的状況の中で生きていた。
物語はフランス革命の真っ最中だと考えられるが、革命についてまったく触れられていない(奇妙だと考える)→下記参照
怪物の存在
産業革命による新技術や違う世界の到来の前触れこそ「怪物」なのではないか。
闘争としての歴史
マルクス主義批評家にとって「歴史」とは、対立する社会的な力の闘争を意味する。たとえ作品内に闘争自体をテーマとしていなくても、テクストの中に、統一を崩す矛盾の要素が含まれているはずであり、そこに「歴史性」を見出そうとする。
現代的なものが一切排除された世界を背景として怪物は、都会・産業・労働者といったものを一身に負って体現しているゆえに、真の怪物性を帯びることになっているのではないか。
文化研究では、優れた作品をキャノンとして権威づけることを否定し、文化的産物であれば写真であれ広告であれすべて同等に扱い、差別しない。その目的は、価値評価による作品の位置づけではなく、文化的背景における作品の関係づけである。このような考え方を土台とした批評の方法。
『フランケンシュタイン』が文学伝統と大衆文化との間でいかに激しく揺れ動きながら伝播していったか
この作品は、古典文学を下敷きとしているが、出版後一般大衆文化にも普及し、今日までフランケンシュタインの名が知れ渡っているのは大衆文化の中でも映画が果たした影響は大きい。
原作からの逸脱と変容
フランケンシュタイン像
怪物像
生命の誕生
ポストコロニアル研究は、広義には西洋によって植民地化された第三世界の文化全般の研究を指すが、特に文学作品を対象とする場合をポストコロニアル批評という。植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究するアプローチ、帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において、植民地がいかに描かれているかを分析するアプローチなどがある。
『フランケンシュタイン』におけるオリエンタリズム
この作品は植民地を支配する側の西洋生まれの作家によって書かれた。つまりポストコロニアル的な視点で眺める場合、作者が第三世界やそこで生まれた人々をどのように描いているかという問題に焦点を当てる。
帝国主義的侵犯
フランケンシュタインの友人クララヴァルが学んだのは東洋の語学・文学である。
クラヴァルの企ての中に、インドでの植民地建設が含まれていることが明かされ、帝国主義的色彩が加わっている。
古くから、文学作品を歴史的背景との関係において研究する方法はあった(歴史主義)。
しかし新歴史主義は、歴史を文学作品の「背景」と見なすのではなく、より広範なものとして捉え、社会学や文化人類学などを含む「社会科学」として位置づける。
また、歴史的な題材など他の領域のテクストと文学テクストとの境界を取り払うというやり方を採る。
フランケンシュタインは作中でアグリッパに熱中するが、18世紀にはデカルトであったり、ラ・メトリーの『人間機械論』などの著作があった。
『フランケンシュタイン』は単に作中に登場する先行作品だけでなく、18世紀中頃の人間を機械と見なす考え方を取り込んでいる可能性。
フランケンシュタインが大学生の頃に語るヴァルトマン教授の言葉には、ハンフリー・デイヴィの『化学講義序説』や『化学哲学原論』の影響が見られる。 etc)
文体論とは、テクストにおける言語学的要素に着目し、作者が文やテクスト全体のなかで、語や語法などをいかに用いているかを科学的に分析する研究方法をいう。こうした観点から見たアプローチ。 原文(今回は英語)が読めないとできないっぽい。
作品世界と読者の世界との間に仕切りが存在しないかのように、テクストのなかに入り込んで論じるような方法を「透明な批評」という。
つまり、私たち読者が作品世界に入り込んで考察するような仕方のアプローチということか?
逆に「不透明な批評」とは、テクストを客体として見て、その形式上の仕組みを、テクストの外側に立って分析する方法である。
透明な批評から伝記的批評を用いて考察するなど、立てた設問を考えるという単なるゲームに留めず、そこから作品の中心部に迫っていくことが可能。
具体例として、「アーネスト・フランケンシュタインはどこへ行ったのか」という設問がある。確かに作中では中盤から怪物との復讐劇の模様が主題となり、突然語られなくなる。
「なぜ怪物は黄色いのか」
怪物がいわゆる「黄禍」、つまり黄色人種がもたらすとされていた災いを象徴するから
怪物が黄疸にかかって生まれたから etc)