「廃墟の朝」
平岡公威の散文
『決定版三島由紀夫全集』第26巻に収録されている
『決定版 三島由紀夫全集 第26巻』 三島由紀夫 | 新潮社
「現代瞬時の記録」とされている。
「処女作は廃墟の朝の如きものであらねばならぬ」という記述がある。
👀解釈
ノオトⅥ
「彼は何故かういふものを書いたのであらう」といふ人は正しくもあり誤つてもゐる。発生と意図と結果とが渾然と一つになるときその作品は死せる作品である。作品には妨害物――あの犯すもの――が必要であらう。その度にその作者は「領域」の為の戦士になり得る。掠奪が美しい行為となるのである。
遺作『豊饒の海』にいたるまで、彼の芸術を支配する原理が既にここに示されている。
「「領域」の為の戦士」というモチーフは、『美しい星』で「神」へ拡大され語り直される。→神への関心
この戦士を、「犯すもの」「掠奪するもの」と捉えてはならない。この戦士は楯である。「妨害物」とは何かは措こう。戦士は、その掠奪と対峙し、闘うものである。
一目でその全容が見てとれる芸術は死している。
作者は作品の死を救うために死ぬ。そうして掠奪は美となる。
この妨害物は「迷い」でも「制作の困難」でもない。もっと根源的な、恐るべきものである。これと「世界無」を並べて考えてみても良い。→『豊饒の海』創作ノートから見る三島由紀夫の思想と芸術(1)