『豊饒の海』創作ノートから見る三島由紀夫の思想と芸術(1)
そこには、近現代の多次元的・相対主義的な世界観に対する分析と、芸術(作品)のありかたが検討されている。
三島由紀夫は、すでに自他ともに認めるように、男性的な見地(男性原理)を追究した芸術家である。 それについて、芸術家の生き方は、微妙で複雑な関連を持っている。
芸術とは、本来的に、そもそもイデオロギーと相対的な関係を保ち、中性的なものであり、世界の趨勢と矛盾するものではない。 進歩史観、資本主義的発展は、裏返しの世界の芸術化と言える。近現代の理想像は、理念と存在の同時的把握だからである。 「近現代が理念と存在の同時的把握である」
これをわかりやすく、くわしく説明しよう。昔は、お釈迦様やヒンズーの神々のいるインド(天竺)は、日本人にとっていくことの出来ない彼岸だった。そして日本人がいるのは常に日本のどこか、理想の天竺ではなかった。日本人はインドを絶えず夢見ていたのである。空間的断絶。
そしてインドのみならず、生活している日本自体に対しても、個人的・集合的な願望による多様な世界像を求めていた。人々は未来に希望を夢見続けて生きる。時間的な距離。
空間的・時間的な遠さの中で、人間は素晴らしい未来であろうと悲惨な未来であろうと、存続しつづけてきた。なぜなら、いかに素晴らしい未来といえども万人を満足させるわけではなく、いかに悲惨な未来といえども誰もが望まない出来事ではないからである。
さて、テレビ・ラジオといったメディア・テクノロジーの発展、人工衛星、飛行機などの移動手段の発展は、人間に時間的な距離を短縮させ、空間的な繋がりをもたらした。昔は、空間的に遠い存在は、時間を含んでいた。遥か遠いものを時が隔てていた。こんにちの私達はメディアを見聞きすることで、感覚的に地球の丸さや、インドが日本と同時的に存在すること(また、私達がいなくなってもインドは存在するということ)やはっきりとした空間的世界を信じることができるようになった。空間的世界は観念性を失い、具体的になった。 確かに宇宙の果てといった遠さについてはまだ人類は観念的なところがあるものの、少なくとも地球という世界の内部においては人類は汎神論的で多次元的な世界として生きるようになった。
世界はひとつであり、それは理念であると同時に存在の実相として受けいれることができる。
さて、芸術家とはそもそもイデオロギーを相対化する立場であり、中性的なものである。
では、芸術家は、この世界(像)の進歩・文明の発展とともに歩んでいくべきなのだろうか。歩んでいくものなのだろうか。
しかしそれは原理的に不可能である。
なぜなら現代の中心思想である「よりよき未来」は、またイデオロギーとして世界を変化させようとするが、そのイデオロギー自体を芸術家は否定してしまうからだ。芸術家には、世界をひとつにしようという跳躍と、よりよき未来というヴィジョンに対する倦怠への跳躍、また国家否定への跳躍が相対している。現実では、イデオロギーは相互に蝕みあっている。 実際の政治的な衝突やイデオロギー対立ならば、そのように混沌的に混じり合いつつ漸進的に発展していけばいいのだろうが、芸術家においてはそういうわけにはいかない。なぜなら、芸術家は芸術作品を生み出すものであり、相対の中に作品という絶対を生み出すものだからだ。(この矛盾について鋭敏な三島由紀夫はすでに予見していた。これはデュシャンやベケット、ケージなどの鋭敏な芸術家が無の創造に向かったのとちょうど好対照に思われる。) 従って芸術は、思想として、このような相対主義的未来像(国家否定)を含みつつ、作品としてこれを否定している。なぜなら、作品という存在そのもの迄相対化することはできないからである。作品という相対的存在を絶対化することにおいて、芸術家も亦、雄になる。しかし、それは夕焼けの雄である。 芸術とは一時代の終末観を基にした、作品の絶対化である。
創作ノートより
つまり、芸術そのものは矛盾に満ち、内容も形式も相対的であり、混沌としたものであっても、それ自体が存在するということはぬぐいがたい事実であり、日本人にとってのインドのように、否定しがたくある。夢が具現化したような存在、それが芸術作品である。
夢が記憶や過去にももとづいているように、芸術も過去や記憶に基づいている。死んだ価値の復元(伝統)、絶対的イデアの仮構(価値相対化への対抗)が企てられる。
しかし、そのように生きる芸術家の生活は、矛盾に満ちたものになる。
2、作品制作の原理(※)と、作品の絶対化が、徐々に(原理が)イデオロギー及び(作品絶対化がそれへの)固執に酷似してくる。(たとえば、三島由紀夫が右翼化して日本主義になったことと、『豊饒の海』を構想し書き始めた時期が、シンクロしていること、それをライフワークとしたことなどに注目されたい)
3、そして、芸術家の相対的世界観に作品がいやおうなしに対抗してくる。
これを足がかりにして彼を男性的原理(せまい原理)へ促すからだ。※
世界無の作品化と、世界有としての作品の創造。→文
世界有の生活化と、世界無(死)→武
従って作品は、現象する限りでは、世界無(大夕焼け)の表現である。しかし作品存在においては世界有の証拠である。生活は、現象する限りでは、世界有の表現である。しかしその究極の存在形態は死に帰着する。死を目ざすところの行動原理。雄の宿命。