ニーチェの永遠回帰と<子供>、超人、運命愛
『これがニーチェだ』の読書メモ。
(※引用されているニーチェの遺稿には『権力への意志』と『生成の無垢』があり、おそらく永井はそのどちらかから引用している)
本書の永井均の主張を完全に理解できているとは言い難いが、彼はニーチェの語りに三つの問いの空間があるとして議論を進めている。
第一空間:ニヒリズムとその系譜学
第二空間:力への意志とパースペクティヴィズム/遠近法主義
第三空間:永遠回帰=遊ぶ子供の聖なる肯定
さらに永井によると、それぞれの空間は並行しあい、また対立しあっている。
そして、第二空間の力への意志やパースペクティヴ主義の語りは永遠回帰や運命愛の思想によって第三空間に移行する。
第二空間では、世界を動かしている背後の実体として力への意志が想定されていた。しかし、第三空間の語りでは、意志の存在が否定される。
「われわれが作用する存在であり、力であること、これはわれわれの根本信念である。(中略)われわれが意志の自由と呼ぶものは、自分の力の方がより大きいと感じるその感情であり、自分の力の方が強いていて、相手の方が強いられているという意識なのである」(遺稿、一八八五年四月─五月、34[二五〇])。(中略) 第二空間を駆動してきたこの「根本信念」を否定するところから、第三空間が始まるのである。
「出来事は、引き起こされたものでもなければ、引き起こすものでもない。原因とは、作用する能力だが、出来事に付加されるべく捏造されたものなのである」(遺稿、一八八八年春、14[九八])。このようにして第三空間では、それ自体は引き起こされずに何かを引き起こすようなものとしての力の存在自体が、否定されることになる。この観点から見れば、ある種の人間が自らに感じる──ときに強く感じざるをえない──力の感情は、いわば一種の錯覚なのであり、……
そしてついに、ニーチェは意識そのものの否定へと向かう。
「すべての完全な行為は、まったく無意識的であって、もはや意志されてはいない。意識は人間の不完全な、しばしば病的な状態を表現する」(遺稿、一八八八年春、14[一二八])。
主体や自我も同様である。
「『主体』とは与えられているものではなく、捏造され付加されたもの、背後に挿入されたものである。解釈の背後にさらに解釈者を想定するなどということが、結局、必要であろうか?」(遺稿、一八八六年末─八七年春、7[六〇])。
つまり、世界の背後には何も挿入されていない。解釈する主体、意味づける主体という考え方が否定されたことになる。
また、ニーチェはこうも言っている。
「すべての芸術家でない人々が『形式』と呼ぶものを、内容と、つまり『事柄それ自体』と感じたとき、人は芸術家となる。このことによって、その人はもちろん転倒した世界に住むことになる。なぜなら、その人にとって、内容が単に形式的なものとなるからだ──われわれの人生も含めて」(遺稿、一八八七年十一月─八八年三月、11[三])。「芸術は本質的に現にあるものの肯定、祝福、神化である」(遺稿、一八八八年春、14[四七])。
つまり、世界と自分は、分離されない形式そのものであり、それが内容なのだ。能動と受動、創造者と被造物という対立もない。
第二空間から第三空間への移行は、『ツァラトゥストラかく語りき』の「われ欲す」の獅子から「然り」の子供への移行のことである。
小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。 そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。──『ツァラトゥストラかく語りき』
「汝なすべし」より高いのは「われ欲す」(英雄)、「われ欲す」よりさらに高いのは「われ在り」(ギリシアの神々)。(遺稿、一八八四年春、25[三五一])
背後の実体や主体を否定することによって導かれるのは、世界はすべて偶然であるということだ。すべては、ただそうであるだけ、そうなっているだけのことなのだ。現にこうであることは、何に根拠も意味も理由もない。
永遠回帰とは、「一切が現在あるのと少しも違わない形と順序のまま、無限の時間の流れのうちで、無限回繰り返されること」である。
そして、永遠回帰とは、ただそうであるだけの偶然のこの世界を必然として捉えることである。
だが、もしそのすべてが繰り返すとしたら、どうだろうか。いま必然性を語るべきいかなる根拠もないとされた、まったく偶然的といわざるをえないとされた、一回性の諸事象のすべてが、その偶然性を維持したまま必然と化すことになるだろう。なぜなら、それ以外の出来事は起こりえなかったのであり、また決して起こりえないからである。何の意味も必然性もなく、ただ単に事実そうであったことのすべてが、何の意味も必然性もないままに、まさにそれゆえにこそ、巨大な意味と必然性を持つことになるのだ。
すると、ニーチェが第一空間(ニヒリズムと系譜学)で批判した、クリスチャンたちが価値転倒をしたキリスト教的世界解釈もそれが成立した事実それ自体は非難されるべきものではなくなる。この世に起こったすべては無罪(Unshuld=無垢、無邪気)となる。第三空間においては、世界中のあらゆる意味づけや価値評価は無効となる。
あらゆるものが無罪、無垢だからこそ、価値基準が究極的にないからこそ、存在するすべては肯定され、それ自体で輝いている。
生成が一つの大きな円環をなしているとすれば、どんなものも等しく価値があり、永遠的であり、必然的である……  肯定と否定、好きと嫌い、愛と憎、といったすべての相互関係のなかには、ただある特定の生のパースペクティヴと利害関心が表明されているにすぎない。それ自体としては、存在するすべては「これでよい」と語っている。(遺稿、一八八八年春、14[三一])
永井によると、この境地が超人である。超人はまず肯定する人であり、「永劫回帰を望まざるをえないほどに自己と世界を、その偶然的な現実を肯定している人のことである」。
これがディオニュソス的肯定と呼ばれている。
「自由になった精神は、歓びにあふれ、信頼している宿命論を携えて、ただ個別的なものだけが非難されるべきなのであって、全体としてはすべてが救済され、肯定されているという信仰をいだきつつ、万有の中に立つ──彼はもはや否定しない。……だが、このような信仰は可能なあらゆる信仰のうちで最高のものだ。私はそれにディオニュソスの名を与えた」(『偶像の黄昏』「反時代的人間」四九)。
意味や価値を否定することによってあらゆるものを肯定する。これは究極のニヒリズムでもある。「最も極端なニヒリズムがそのままニヒリズムの克服なのである」。
実際、ニーチェは自分をニヒリストだと語っている。
「私がこれまで徹底的にニヒリストであったことを、私は近ごろようやく自認するにいたった。ニヒリストとして精力的に没頭して歩んできたため、私はこの根本事実が眼に入らなかったのである。一つの目標に向かって歩んでいるときには、『目標のなさそれ自体』がわれわれの信仰原則であることは不可能であるように思われる」(遺稿、一八八七年秋、9[一二三])。
また、ニーチェは神(キリスト教の神ではない神性一般の神)の復活も語っている。
この生はそれ自体として儚く空しいものだ。しかし、そのことによって生に外部の意味を与えるべきではなく、この事実をそのまま肯定する、そこが神の復活の出発点である。
われわれは神という概念から最高の善意を除去しよう。それは神にふさわしくない。同様に、最高の知恵をも除去しよう。神を知恵の怪物に仕立てるというこの妄想を引き起こしたのは、哲学者たちの虚栄心だからだ。(中略)否! 神とは最高の力である──これで十分だ! すべてがこの最高の力に引き続いて生じる。この最高の力に引き続いて生じる──「世界」が! (遺稿、一八八七年秋、10[九〇])
「君たちはそれを神の自己解体と見なしている。だがそれは神の脱皮にすぎない。──神は道徳の皮を脱ぎ捨てるのだ。そして間もなく、君たちは神に再会することになるだろう──善悪の彼岸で」(遺稿、一八八二年夏─秋、3[一]432)。
たとえどんなに惨めな人生であっても、他にいくつかの可能性があったとしても、起こったことがただ起こったに過ぎないのだ。まさにこれが私の人生だったのだ。そこには何の意味も理由もない。
この意味のなさこそがわれわれの悦びだとニーチェは語っている。
「未来へと下っても、過去へとさかのぼっても、永遠にわたって、何ごとであれ、現にあるあり方と違ったあり方であってほしいなどとは欲しないこと。必然的なものを耐え忍ぶのみならず、ましてや隠すのでもなく、(中略)むしろ愛すること」(『この人を見よ』「なぜ利口なのか」一〇)。人生の無意味さは、耐えるべきものなのではなく、愛するべきものであり、悦ぶべきものであり、楽しむべきものなのである。
これが運命愛という思想になる。運命愛とは、[『この偶然=必然に対する愛である。「何ごとであれ、現にあるあり方と違ったあり方であってほしいなどとは欲しない」で、むしろそれを「愛する」こと』である。