「病人は健康な者にとって最大の危険である」
『道徳の系譜』第三論文「十四、悪しき空気」より。おそらくニーチェが本書で1番ルサンチマンの人間に対して毒づいている箇所で、読む人によっては不快なので閲覧注意。 病人は、健康な者たちにとっては最大の危険である。強い者たちにとっての災いは、もっとも強い者たちから訪れるのではない。もっとも弱き者たちから訪れるのだ。そのことを知っているだろうか?
「病人」とはルサンチマンを抱えた人間(ニーチェの言葉で「出来損ないの人間」はルサンチマンを抱えがちである)、精神の弱い人間、疾しい良心や罪の意識に駆られている人間などを指しているように思う。 これら、生理学的な出来損ないの者たち、虫食いの穴だらけの者たちは、誰もがルサンチマンの人間なのだ。
健康な人間にとって、同情と人間に対する吐き気は恐れなければならないものである。
恐れなければならないもの、いかなる不運よりも取り返しのつかない不運として恐れるべきもの、それは大いなる恐怖ではなく、人間にたいする大いなる吐き気だろう。そして人間にたいする大いなる同情である。この[吐き気と同情という]二つのものがいつか番って子を生むとすれば、そこからもっとも不気味なものがこの世に誕生するのは避けられないことである。それが人間の「最後の意志」であり、人間の虚無への意志であり、ニヒリズムである。 ルサンチマンを抱えた人間や病める人間は出来の良い者や勝ち誇る者に対して憎悪の念を向け、中傷する。個人メモとしては5chやTwitterで繰り広げられている炎上した有名人の誹謗中傷やキャンセルカルチャーが思い浮かぶ。 わたしたちはいったいどこにゆけば、人に深い悲哀をもたらすあの陰鬱なまなざしから逃れることができるのだろうか。生まれつき出来損ないの者の内省的なまなざしから、そうした人間が独語する言葉が聞こえてくるようなあのまなざしから、──溜め息そのものであるようなあのまなざしから! このまなざしは溜め息をつくように語るのだ。「わたしがもっと別の人間だったらよかったのに! でももう望みはない。わたしはいまあるわたしでしかない。このわたしからどうすれば逃れることができるだろうか? ともかく、わたしは自分にうんざりする!」……
(中略)
ここには復讐と怨念の蛆虫がうごめいている。この空気には、秘密と内緒ごとの匂いがたちこめている。ここにはつねに悪意に満ちた陰謀の〈網〉が張られている。──これは苦悩する者たちが、出来の良い者や勝ち誇る者にたいして張る陰謀の網であり、ここでは勝ち誇った気配を示すだけでも、憎まれるのである。そしてこの憎悪がそもそも憎悪であることを認めないために、どれほどの欺瞞が企まれることだろうか! どれほどの麗々しい言葉が、おおげさな身振りが、「正しい」中傷のためのどれほどの技が披露されることか! この出来損ないの者たちの唇からは、どれほどの口達者な言葉が溢れでることだろうか! 彼らの目は、どれほど甘く、ねばついた謙遜の諦念で潤んでいることだろうか! 彼らはわたしたちにたいする警告と非難を体現する者として、わたしたちのあいだを徘徊するのだ。──あたかも健康であること、出来の良い人間であること、強い者であること、誇りの高い者であること、自分の力を感じる者であることが、それだけで品の悪いことであるかのように、人はそのことのために償いをすることを迫られるかのように、しかも手酷い償いを強いられるかのように、である。おお、彼らは要するに他人に償いをさせようと、どれほど準備していることか、死刑執行人になることをどれほど熱望していることだろうか。
そしてニーチェの時代にもこうしたルサンチマンの人間の振る舞いが至るところで見られたらしい。現代はさらにインターネットによって過激化しているようにも思える。
この〈病める者の意志〉、それはどんな形であっても、優越感を誇示したいという意志であり、健康な者にどうにかして暴力を加えることのできる抜け道を探しだそうとする本能である。──この弱き者の〈力〉への意志が存在しないところがあるだろうか!
病める者の意志も素材が違うだけでその意志は力への意志である。 彼らはそもそもいつになれば、自分の復讐の最後の洗練された至高の勝利にいたったと考えるのだろうか? それは自分たちの悲惨とありとあらゆる悲惨を、幸福な人々に、その良心のうちに滑りこませることに成功したときのことであるのは間違いない。これが成功したときには、幸福な人々は自分たちの幸福を恥じるようになり、たがいに次のように語り合うに違いない。「幸福であることは、恥ずべきことだ! あまりに多くの悲惨があるのだから!」。
出来の良い人間や健康な人間はルサンチマンの人間や病める人間から距離を取るべきである。
このような「転倒した世界」などなくなってしまえ! このような恥ずべき感情の柔弱化など消えてしまえ! 病人が健康な者たちを病気にするということ──これが柔弱化というものだろう──がなくなること、これが地上における最高の観点[遠近法]というべきものだ。──しかしそのためには、健康な者たちが病気の者たちから離れたままでいること、病人たちを目撃して、自分が病人だと思い違いをしないように警戒することが必要なのだ。それとも看護人になったり、医者になったりすることが、健康な者たちの任務だとでも言うのか?……しかしそう思い込むことほど、健康な者たちがみずからの任務を思い違いし、否定することはないだろう。──より高き者は、より低き者のための〈道具〉になるほど、みずからを貶めてはならない。〈距離のパトス〉によって、それぞれの者の任務は永遠に引き離されたままであるべきである! こひつ.iconなるほど.icon