ニーチェが弱き者を嫌悪する理由
『道徳の系譜』の第一論文の「十二 人間に倦むこと」より(光文社古典新訳文庫から)。 わたしがどうにも耐えがたいと感じているものは何だろうか? わたしだけが始末に負えないと感じているもの、わたしの息を詰まらせるもの、やつれ果てさせているもの、それは何だろうか? それは汚れた空気なのだ! 汚い空気なのだ! 出来損ないの者が身近に迫ってくること、出来損ないの魂のはらわたの臭気を嗅がなければならないことなのだ! ……それ以外であれば、窮乏であれ、欠乏であれ、悪天候であれ、病身であれ、疲労であれ、孤独であれ、何だって耐えられないものはないではないか? 地下で生まれて、闘争の生を過ごすように定められた存在として、ほかのものであれば原則としてどんなものでも耐えられるのだ。何度でも光の下に戻ってきて、何度でも勝利の黄金の瞬間を味わうことができるだろう──そして光の下で、困窮した事態にあってますます強く引き絞られる弓のように、生まれつきの性分のままに、破壊されることがなく、引き絞られて、新奇なもの、さらに困難なもの、さらに遥かなものに立ち向かうことだろう。
個人的には読んでいる印象としては、上の「汚れた空気」がニーチェが弱い者を嫌う最も大きな要因になっているように思うが、それは弱い者が強い者になろうと行動を起こすことなく自己肯定をして、弱い者のままに強い者よりも「善い存在である」というように価値転換しようとしていることへの嫌悪感なんだろうと思った。
抑圧された者、踏みつけにされた者、暴力を加えられた者は、無力な者の復讐のための狡智から、次のように自分に言い聞かせて、みずからを慰めるものだ。「われわれは悪人とは違う者に、すなわち善人になろう! 善人とは、暴力を加えない者であり、誰も傷つけない者であり、他人を攻撃しない者であり、報復しない者であり、復讐は神に委ねる者であり、われわれのように隠れている者であり、すべての悪を避け、人生にそれほど多くを求めない者である。われわれのように辛抱強い者、謙虚な者、公正な者のことである」。──しかしこの言葉を先入見なしに冷静に聞いてみれば、そもそも次のように言っているにすぎない。「われわれのように弱い者は、どうしても弱いのだ。われわれは、それを為すだけの強さをもたないことは何もしないほうがよいのだ」。この口に苦い事実は、もっとも低い次元の狡智にすぎず、昆虫ですらもっているようなものにすぎない
「十三 弱き者の自己欺瞞」
この後に「一四 理想の製造工場の魔術」では、「──地上でどのようにして理想というものが作りだされるかという秘密を少しばかり覗きこんでみたいという人はいないだろうか? 誰か、そんな勇気のある人はいないだろうか?……」として、キリスト教が作り出した価値について痛烈に批判している。