📖『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』川本直(河出書房新社)
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もしかしたら上半期で一番おもしろかった作品かもしれない。
感じたことや好きな箇所がいっぱいあったけどまとめられないの切れ切れのまま残しておく。
終わっちゃって寂しい!!今年は『陋巷に在り』も読み終えた時寂しかったし…… 『ほとんど記憶のない女』は短編集なので、長編も読みたくて同時に読み始めた。
事前に予習をしないで読み始めたが、なんだなんだ?どういう小説なんだろう?とわくわくしつつ、今日は少しだけ読もうと思ったのに手が止まらぬまま一章を読み切ってしまった。まだまだ続きがあって嬉しい。
…でも『ほとんど記憶のない女』は本当に短編集なのかな?とちょっと疑っている。ひとつづきのはなしではないのか。
今日も続きを読む。ついにジーン・メディロスが登場する。作者が酒見賢一『後宮小説』の江葉をオマージュしたと言っていた登場人物。
ますます面白い。
『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』の続き。p202まで。創作を教える科という体裁だけの場所について語っている部分、著者の経験からくる本音が混じっているのかなと考えたりした。フランスでもアカデミズムの名を借りて教わるのはそんな頭でっかちなことだけ?と感じること、うんとある。 『ジュリアン…』の続き。
アマルフィの別荘でヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードを聴いているシーンで、ベルリンの、あの凍った泥の敷地に囲まれた家でヴェルヴェット・アンダーグラウンドのCDを際限なくかけていたことを思い出す。昼には町にでかけて稽古に行ってロシア人経営のネットカフェでカードを買いメールをチェックして、カフェを2、3件はしごして帰宅しご飯を食べて、ワインボトルに長いろうそくを立てて燃え尽きるまでいくらでも話した。何をあんなに毎晩話すことがあったんだろう。しんみり話しだしたとしてもいつのまにか踊ったりどんちゃん騒ぎになって笑いながら各自の部屋に引き上げていった。 ところでこの『ジュリアン…』、お酒を飲むシーンが頻出するのだけれどどういうわけかジュリアン・バトラーはものすごく美味しそうに飲むし、食べる。特別な描写があるわけでもないのになんだか本当につるつると美味しそうなんだ。
今はっとしたのだけれど、私が感じたジュリアンがお酒を飲んだりものを食べたりするシーンで感じていたこと(2025-04-01#67ec47e20000000000d269fc)は、どちらかというと細身の、余分な筋肉や脂肪のないひとの体がすいすいとアルコールを飲み牡蠣を食べている様子に限られたことなのかもしれない。例えばたくさん食べて体が大きくなったような人物が食べる描写にはまた別の心地よさ・満足感があるのだけれど、そんなにたくさんのカロリーを入れていないように見える人の体にどんどん食べ物が収まっていく様子は、あまり匂いや味が濃くないんだけどそれでも洗練された美味しそうさがある。どこに消えちゃうんだろうな?という感触が、現実の食べ物の味を超えた架空の美味しそうさを感じさせるのかもしれない。 カポーティの『夜の樹』『遠い声 遠い部屋』を読んだのはだいぶ昔のことだけれどたしか好ましい印象を抱いていたのを覚えている。だからここでカポーティの人物描写を見てほえーとなっている。高慢で鼻持ちならない、ときに浅はかにも見える。それでも、というかだからこそだと思うけれどp276の 「ねえ、ジュリアン。なんで何もかもが決まりきったように消えてなくなるのかしらね。人生ってなんでこんなに忌々しく、下らないんでしょうね」
の部分で心臓が揺れて指先まで圧迫し、息が止まってぱたっと本を閉じた。
ちょうど長くなってきた日がとっくに落ちて、でも水平線にはうっすらと熾火みたいに今日の残りがくすぶっていて、風もなく静かだった。夢中になっていたから手元の電気以外をつけることに思い至らなくて部屋は真っ暗、そのセリフとわたしだけが取り残された。
もういちど『夜の樹』とか『遠い声 遠い部屋』を読みたいな。今読んだらどんなことを感じるのかな。
私が本を速く読めなくてもいいやと思えるようになったのは、フランス語の本はさらにゆっくり、這うようにしか読めない経験を通してだった。ひとつの文章を2回も3回も読み直してもわからなくて、それでもだましだまし進んだのちようやくさっきの文章の意味がわかったり、間違いに気づいたりした。子どもの頃に戻ったみたいだなあと思った。分からない言葉があってもかじりつくように読んで一冊読み終えると大きな達成感があったことを思い出す。同じ本を何度も読むうちに過去の自分の読み違いに気づいたり、感覚をつかめないでいた単語がすでに知ったものとなっていて自分が大きくなったんだと感じたりもした。
フランス語は単語ひとつとっても感覚的に像が結ばないことがある。まだその単語に多く当たった経験がないから。子どもと同じだ。その単語に出会う経験を重ねるほどにあちこちの角度から「こんなかんじ」が焦点を結んで意味をなしてゆく。きっと日本語の単語もこんな風に人によって抱いている景色がそれぞれなんだろうと思った。それならば、言葉だけでお互い理解し合うことの難しさは果てしないなとも思う。
ある本を(フランス語で)読んだ時、私はそれを同じ主人公の話として読んだのだけれど、実際はそれは短編集で、全然別のお話が載っているだけだった。(2022-09-28 勘違いしたまま異質な世界を見る)そのことに最後から2つ目の章(というか話)になって気付いたのだった。自分がそこに抱いていた不思議な感じ、時間や性別や国を飛び越える主人公という物語は自分だけの幻想であった。(そのためもあってなのかこの作品を私はすごく高く評価しているけれど、この読み間違いがなかったらどう感じたのかはわからないままなので、その評価が一般的なものとは外れているかもしれないと思っている。でも、一般的な評価って?正しい読み方ってなんだろう。勘違いや思い込みだってひとつの読書体験であるならば…と考えると埒が明かないのでやめるけど) ひとつの文に付き合うことと10冊の読書を比べる意味はあまりない。
それにしても読みたい本は毎日増えるので、速く読みたい欲は消えないけど。
あとがきをのぞいて読了。
まだページが残っているから油断していたけれど、あっけなく去っていってしまった。
歯切れが良く辛辣でありながら、人間の複雑さがよく観察されているという意味で愛情深い文章だなと思った。(それを読んだ後に自分の文章で感想を書くのはなんだかひどく残念な行為のような気がしてしまうが)
ひとりが去ったことを悲しむ間もなくもうひとりもふあっと話から退場してしまったから、おとぎ話から開放されたみたいに、さみしいけれど深い喪失感とは違う。
あとがきまで読了。
いや、見事だった。
最初に種明かしはされているわけなので(本当の意味での種明かしではないが)大幅になにかがひっくり返るわけではないけれど、でも小さく明かされることがあるんじゃないかとどきどきしながら読んでいたが(何を予期しようとしていたのか自分でも分からない)最後まで読んでみるとひとりの人生を辿った時間がそこにあった。
誰かの一生をこんなふうになぞることってなかなかないんじゃないだろうか。伝記ならあるだろうけど。
あとがきや、参考文献、そして最後のページ、にやりとせずにおれなかった。
読んで良かった本のひとつになった。