プロジェクトという営みに向き合う心の十段階
プロジェクト活動において「ここまでいけば合格、うまくいった」と考える基準は、人によって実に多様なものです。基準が変われば、当然ながら、結果にも影響します。下図は、それらのばらつき具合を、発生確率も含めて概念的に図示したものです。
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センミツ、なんて言い方もありますが、実際のところ、本当の意味での新価値が生まれるような取り組みは、プロジェクトが1000あったらそのうちひとつぐらいなものです。
典型的には、構想の時点で見立てや見通しが甘いために、成果物を生み出すのがやっと、とか、生み出すことが目的化し、本来の願いが叶えられないで終わるものです。
やっているうちににっちもさっちもいかなくなり、いつかどこかで機能や性能を妥協するとか、コストを積み増すとか、日程を延長して、どうにかこうにか終わらせる、ということをします。世間のプロジェクトの、だいたい6割ぐらいは、そんな形で終わらせるのが通常です。
有能なPMの指導のもとで、きっちり目標通りのQCDで完結させることもあります。逆にPMが不在だった場合や、いたとしてもよほどの不運に見舞われた場合には、計画を大幅に変更せざるを得なくなります。それぞれ、世の中のプロジェクトの2割ずつを占めている、と、いったところです。
しかし、問題はそこではないのです。問題は、QCDを期待通りに満たすということが、極めて困難を伴う作業であるにも関わらず、それを満たしたとしても、周囲の人の喜びや幸せに繋がることが、意外と少ない、ということです。
計画通りということは、資本の論理にとっては、それがプロジェクトだろうとルーチンワークだろうと、「当たり前」です。しかし、もしそれが、真の意味において未知なる価値を生み出すための取り組みであったなら、計画通りは「原理的に言って、あり得ないこと」なのです。その矛盾を乗り越えるために様々な努力や犠牲を払っても、それが報われずに終わってしまう現場が、実に多いものです。
本当に、やってよかったと関係者の皆が思える取り組みでなければ、本当は、プロジェクトというのは、取り組む甲斐など、ないのです。QCDという3要素は便利な尺度ですが、あまりそればかりに囚われていても、向上には繋がりません。
世の中に、1000のプロジェクトがあれば、そのなかで、本当にやってよかったと思えるようなものは、せいぜい1つぐらいしかない。
この問題に、弘法大師の語られた「十住心」を重ね合わせる、というのが、この小論のテーマです。
なぜ空海、なぜ仏教?と思われるかもしれませんが、「十住心論」は、我々にとって非常に重要な示唆をもたらしてくれるのですす。プロジェクトという営みに向き合う心には、レベルというものが厳然としてあります。それらの段階を理解するこで、人間は、いかなる精神的な階梯を登るべきなのかが見えてきます。
十住心論の中身の、非常にざっくりとした紹介
異生羝羊心 - Lv.1 欲望のままに行動し、その結果苦にまみれている、その自分の状況にも無自覚
愚童持斎心 - Lv.2 あるきっかけで「これじゃだめだ、さすがにちょっと、どうにかしよう」と考え始める
嬰童無畏心 - Lv.3 「いっそのこと、遥か彼方の救いの境地まで行くべきだ」と考え始める
唯蘊無我心 - Lv.4 いやまてよ、「救いを求める私」って、実在するのか?と疑問を持つ
抜業因種心 - Lv.5 「苦」から開放されるには、根本原因を扱う必要があると気づく
他縁大乗心 - Lv.6 自分だけが救われるべきなのでなく、衆生みなが救われるべきなのだと気づく
覚心不生心 - Lv.7 救われよう、とか、救おう、とか、そういうものの見方の無意味さを思い知る
一道無為心 - Lv.8 歩んできた向上の道やあらゆる教えが虚構であり、フィクションであったことを理解する
極無自性心 - Lv.9 部分と全体の根本的構造を悟る
秘密荘厳心 - Lv.10 言葉にできない真理を、先輩から直接授かる
(取り急ぎwikiより)
『十住心論』(じゅうじゅうしんろん)、正確には『秘密曼陀羅十住心論』は、空海の代表的著述のひとつで、830年ころ、淳和天皇の勅にこたえて真言密教の体系を述べた書。
人間の心を、凡夫から最終的な悟りの境地に至るまでの10段階に分けて整理・解説したもので、それぞれに当時の代表的な思想(第4段階以降が、初期仏教や大乗仏教)を配置することによって、仏教全体の体系的整理・解説をも築いている。9段階目までの顕教に対し、10段階目を言語的な伝達が可能な域を超えた密教と位置づけ、人間の心の到達できる最高の境地であるとしている。
異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心
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なにかミッションが与えられたら、やたらめったら、思いつきで行動する
先読みをする、とか、段取りをする、という発想がない
自分の扱いたい題材や技術だけに興味がある
組織的な目標や大局的な動き、狙いに関心がない
目覚ましい成果を出そう、やりとげようという意気込みや自負心がない
美味しいところだけ持っていきたいという下心が滲み出ている
口当たりの良い言葉だけを発したい、耳触りの良い言葉だけを聞いていたい
短期的に、目先のことがどうにかなれば、それでいいと思っている
自分の利益を最大化しているつもりで、逆の結果を招いている
つまり、煩悩具足、煩悩熾盛の真っ只中である、ということ
※備考※
基本的には、新卒入社後、間もない、社会や会社に対する構えができていない社員のイメージをすればよいでしょうか。とはいえ、色んなタイプの人がいます。ギラギラした我利我利亡者っぽい人、自信がなくて弱々しい人、はたまた物分かりが良い人間に見せかけて、極端に裏表のある人、とか。
企業組織のなかでは、こうした行動原理のまま、成熟しないままでも、生き残ることは可能です。むしろそのほうが、出世や昇進もしやすい、というケースもあります。
つまり、人間的な成熟を「しないほうが都合が良い」という業務や職務、環境というものも、あるのです。(中身は別として、なんだかんだで仕事を持ってくる営業が、なんだかんだ経営者から重宝される 等)
あるいは、その仕事にプロジェクト的な要素や経営判断を伴う要素が少ないために、この段階に留まる人も多い。(ルーチンワーク的な仕事が多い技術者、タコツボ化された領域を掘り続ける研究者 等)
PMやディレクション、制作進行に関わる人間でも、その行動原理が「自己の評価や利益」に置かれている人も多い。(Web/IT業界に異様に多い)
この段階に留まってしまった経営者、という存在も珍しくありません。(本来独立家であるべきにも関わらず、多重下請構造から抜け出せなくなってしまう。あるいは、本来は手段であるはずのお金や知名度、権力を目的化してしまう、等。他人の不幸を拡大再生産することで、己の短期的欲望を満たし続ける、といった状態に進化してしまう人もいる)
社会や会社は「なにはともあれお金が回ること」が、なんだかんだいって大事で、良くも悪くも、そこに適応さえしていれば、生きていけるものです。よって、世の中の人の8割方は、この境地に留まっています。
それでも生きていける、ということが、果たして望ましいことなのか、どうなのか…
愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地
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ある程度、社会生活に苦労した人で、向上心があれば、自己中心的な構えでは駄目だということに気づく
いわゆるマネジメントの、素朴なものに目覚める
ちゃんと見積もりを取る、とか、スケジュールや計画をしっかり検討して、後々齟齬がないようにする、とか
あるいは、そうした段取り術を「やらされ」でやっていた境地から、必要性をしみじみと実感し始める
なかには、MBA経営学やスタートアップ系経営学、PMBOKやScrumといった理論を学び、PMPやScrumMasterなどの、ビジネス化された資格の取得を目指す人たちも出てくる
実務的に、ある程度の成果を出せる人もいるが、資格や勉強がアクセサリ化してしまい、特筆すべき秀逸な領域までには至れない人も多い、というのが、この段階
Lv.2を経由して1に戻っちゃう、というルートを辿る人も珍しくない
嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地
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ビジネス化された資格やそれにまつわる知識は、必要条件であっても、十分条件でないということがわかり始める段階
勉強を実践に、そして成果に繋げるために、真摯に現場に向き合うことで、ここに至ることができる
しかし、実は、本当に優れた成果を生み出すためには、実は、知識や資格がなくても構わないのだ
そう、この境地に至ると見えてくる
己のリビドーやフェティッシュに駆動されていかがらも、我執の嫌な感じはなく、欲求や執着に惑わされない生き方がある
上手に社会との距離感を置き、楽しく自由に、幸せそうにやっている人たちがいる
そこに行きたい、と、考えるが、どうすればいいかわからない段階でもある
特定のノウハウやニッチを見つけ、そこを達成しつつ、そこに留まり続ける、という人もいる
唯蘊無我心 - いわゆる声聞の境地
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世の中の、あるいは人生の実相というものに、はたと気付いた人が、この境地に至る
どういうことか
「そこに行きたい」「にも関わらず行けない」のは、エゴや我執に囚われていたからなのだ
世の中の成功事例や成功譚は、計画が計画どおりにいったから、ではないのである
プロジェクトとは(つまりは人生とは)、そもそも、思い通りにならないのが本来の姿なのだ
余計な知識を詰め込み、プライドの塊みたいになった人が、ここに来るのは至難の業である
「お勉強」をした人であるほど、それをアンラーンするのは難しい
いくら努力しても、いや、努力をしようとすればするほど行けない人もいる
自覚的にはなんの作為も努力もせずとも、ここから始まる人もいる
厳しい表現だけど、ふと思い出す冨樫先生の名表現
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©️冨樫義博
抜業因種心 - いわゆる縁覚の境地
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そもそもの実相に気付いたその次は、本当の意味で取り組むべき、意義のある、大義のあるなにかを目指すことに目覚める
我欲ではなく、意欲により、良い仕事をしよう、という境地である
世の中、最初からこの境地にいる(ように見える)人も、不思議と多い
最初から知識的なものを摂取しなくて、小さなエゴにもとらわれない、という人も、いないことはない
ナチュラルボーンな、天然の、天性の価値創造者、とでも言おうか
まぁ、そういう人は稀といえば稀なのだけれども
一方で、社会的に活躍している、イキイキとした人たちとの交流が増えてくると、意外とそんな人も多いことに驚く
他縁大乗心 - いわゆる菩薩の始まり、特に唯識的な境地
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大義や正義は、確かに悪い概念ではないが、実はそれらは、コミュニティの内部にいる限りは、敵や差別を作る
仏教史も、ある意味では内部分裂や差別、序列化、抗争の歴史であった
昨今「マウント」という言葉が随分と流行っているが、おそらくそれは「中程度に成功した人」同士の争いなのである
ここに留まるうちに、なにがなんだかわからなくなり、Lv1に逆戻りしちゃう、なんてルートも、そこそこ多く見かける
経済的、社会的に一定水準を満たそうとする過程で、せっかく精神的に向上できたにも関わらず、俗っぽい欲求を満たすうちに、テーマを見失ってしまう 等
覚心不生心 - 中観、般若経的な境地
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そもそも成功失敗とか善悪といった価値判断は、恣意的な線引きの結果であり、絶対のものではない、と気付きを得た境地
ただただ、裸のままで、ありのままでいればよいのである
Lv.1との違いはなにか?
プロジェクトという苦しい現実から、その苦しみから、逃れよう、という発想から、脱却しているかどうか、である
つまり、娑婆即寂光浄土を、地で行く、ということ
白隠さんの「南無地獄大菩薩」も、同じことを言っている
下層から上層、という序列化もまた無意味だったのだと気づいて初めて、次の段階が見えてくる
一道無為心(如実知自心・空性無境心) - 法華経的な境地
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阿弥陀=ア・ミタ、つまり、数えられない、無限の概念を導入することで、認識の次元が変わる
有限の存在である人間の、いじましい作為というものから自由になる
ありとあらゆるものごと同士の繋がり合いを理解する
過去現在未来の繋がり合いを感じ取る
ゆえにこその、生まれたままの奔放、採れたての新鮮さ、初期衝動のゼロ地点の境地
極無自性心 - 華厳的な境地
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本当に大切な、いまここ目の前この瞬間の、ただ一点に全ての力を注ぎ込むこと
それが、全てを満たすことと同義であることを理解する
同義である瞬間を見つける力を持つ
秘密荘厳心 - 真言密教の境地
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言葉にできないこと、大きな声では言えないことを、先達と共有する
そして自分も、次世代に繋ぐ
※あとがき※
実は、Lv.11以降にこそ、無限の階段が待っているのだ
それが遺されている、あるいは、預けられている、ということは、きっと、とても幸せなことなのだ