「法華経とは何か」という快著への賛辞
植木 雅俊「法華経とは何か その思想と背景」は、本当の教えとは、どういうものなのか、という問いに対して極めて真摯な、名著と呼ぶに相応しい一冊である。色々と紹介したい箇所が多いが、特に紹介したいのは、現代にまさしく通じる、全く変わらない「教え」と「堕落」の織りなす歴史である。
いつの時代も、特権階級は腐敗し、教えは堕落する。人間は差別する。オトナはズルい。
僧というのは、言ってみればコンサルである。僧もコンサルも、真っ当な人が少ないのは今も昔も変わらなかった。勧持品や安楽行品は、現代におけるコンサルの心得として読みつがれる価値がある。
そこを踏まえた上で、常不軽菩薩品について味わうことができれば、悟りという体験が、実は遠く離れたものではくなると、ただちに理解できる、と、思うのだけれども・・・
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勧持品
教団の堕落と権威主義化の傾向は、釈尊入滅直後にすでに現れていた。釈尊の直弟子たちが書き残した「テーラ・ガーター」(中村元訳「仏弟子の告白」)には、その兆候を嘆いている箇所が見られる。
修行僧たちは、「腹がふくれるほどに食べ」「目が覚めると雑談をし」、遊女のように装い飾り、王族のように権威的に振る舞い、「奸詐なる者、欺瞞する者、偽証する者、放埒なる者どもであって、多くの術策を弄して、財を受用する」という堕落ぶりを露呈する。
そして、釈尊によって重視されていた民主的な会議も、修行僧の堕落とともに形骸化していたことが現在形で綴られている。
かれらは会議を開催するが、それは(わざわざ)業務を作り出すためであり、真理を実現するためではない。かれらは他人に法を説くが、それは(自分たちの)利得のためであり、(実践の)目的を達成するためではない。
五百年のあいだに、①聖地信仰、②ストゥーパ信仰、③在家や女性に対する差別思想、④人間主義を否定する絶対者の導入、⑤釈尊の神格化、⑥修行の困難さの強調、①出家中心主義など、ことごとく歴史上の人物である釈尊の説いていたことと正反対のことが説かれるに至っていた。『法華経』を"非仏説"と批判した小乗仏教は、釈尊の時代から連綿として続く教団で、我こそは仏説”と自負しているかもしれないが、釈尊の教えを改竄していたのだから、思想的には、小乗仏教のほうこそ"非仏説"である。
『法華経』は、こうした五百年のあいだにずれてしまった仏教に対して、「釈尊の原点に還れ」「原始仏教に還れ」と随所で主張している。「自己」と「法」にもとづくこと、在家の復権を図り、女人の成仏を明かし、人間を根本にすえ、一切来生の成仏を説いている。そちらのほうが、本来の仏数に沿ったものであり、文献学的には『法華経』は"非仏説”であるかもしれないが、思想的には"仏説"である。
安楽行品
安楽行品では、「善い行ない」として忍耐、感情の抑制、心の制徴をたもち、誤った憶測で判断しない、不正直、高慢、狡さ、嫉妬をすべて捨て去る・・・・・・などを挙げ、「適切な交際範囲」、すなわち自ら近づいて親しくなってはならないものとして国王・王子・大臣などの権力者、歓楽や遊興の場所と、その関係者などが列挙されるとともに、女性に執着して法を説いてはならないことなどが挙げられる。
(一方で、権力者等に対して)こちらから積極的に近づくことは戒められているが、法を求めて向こうから近づいてきたときは、随時に法を説くべきだとしている。ただし、執着してはいけない。嫌な顔をしないで意味のある感動的な話を語るべきである。
質問した人が覚りを得ることができるように、適切な意味のすべてを説き示すべきである。多くの比喩によって、日夜に最高の法を説いて、聴衆を歓喜させ、満足させるべきである。「私もこの人も、ともにブッダになるように」と願って、『法華経』の法門を説き聞かせようと考えるべきである、としている。逆に「お前は、覚りを得ることはないのだ」などと言って、相手に不安な思いを与えてはならないーといったことが挙げられているのは、当時の仏教界の実情の裏返しであろう。
この章は他の章と違い、奇想天外な巨大数を使った時空を超越した話などがまったく出てこない。日常的な実践や振る舞いについては、『法華経』編纂者たちは極めて現実的であったようだ。
常不軽菩薩品
常不軽菩薩品の主人公であるサダーパリブータ菩薩の名前を、竺法護は「常被橋慢」(常に軽んじられる)鳩摩羅什は「常不軽」(常に軽んじない)と漢訳した。二つの訳を比べると、肯定に対して否定、受動に対して能動というようにまったく相反する訳になっている。
過去受動分詞は、受動だけでなく、能動の意味でも用いられ、サダーパリブータは四つの意味の掛詞であるという。
そこで著者が出した答。
常に軽んじない〔と主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる]菩薩。
サダーパリブータ菩薩は、あえて人間関係にかかわって、言葉によって語りかけ、誤解されても感情的にならず、自らの人間尊重の主張を貫き、誤解を理解に変えて、ともどもに覚りに到るという在り方を貫いた人である。
これは、原始仏教以来、変わってはならない実践形態であろう。そのようなサダーパリブータ菩薩からすれば、「光で照らすだけで人が救えるのか?」という疑問はぬぐえない。人は、人間対人間の対話によってしか救うことはできないということを釈尊は語って聞かせているように見える。
法華経は、実に映画的な、SF的な、説話的な経典であるが、同時に、実に政治的な、現実的なものでもある。
青臭く、若々しく、同時に、老成している。仏教哲学の良い部分が、良い形で記録されている。それが、法華経である、ということを、本書は教えてくれた。