新規事業を成就せしめる要因について
プロジェクト進行支援家という看板を掲げているなかで、定期的に、新規事業開発がうまくいっていないから、プロジェクトマネジメントのテコ入れをしたい、という相談をもらってきた。
その過程で感じた最大のことは、新規事業とひとくちに言っても、組織規模の大小、新規性の度合い、デジタルの関与度、シーズの有無、先行者の有無、需要の潜在顕在、活用できる資本の多寡等、変数が多すぎて、その成功方程式など、とても簡単には表せっこないよなぁ、という、しごく当たり前のことだった。
しかし、そこで立ち会ってきた心象風景は、いつもどこか、似ているのである。
いまどき「新規事業の成功エピソード」なんてものは、ビジネスメディアには掃いて捨てるほどあるし、それを指南する言説にも溢れかえっている。
https://gyazo.com/9e2e94564b2fc0e542c909fa482f12d7
しかしいざ、具体的な、何かしらの中間成果物が出てきたときに、それが、どこか想像していたものと違ってしまうのである。
https://gyazo.com/474f9674f50072a78b5f475d17235d21
いろんな規模、業種のそうした取り組みに関わってきて、「新規事業の取り組みがうまくいかないという悩み」とPMは、ほとんど関係がないなぁと思うようになった。
それだけではなくて、新規事業といえば「新規事業成功のための知識やノウハウ」を売って歩く人たちが、やまほどいるわけだが、そうした知識やノウハウについて、まぁ、もともと苦々しく思っていたのだが、一旦、謙虚になって、ある程度お勉強も、実践もしてみて、その上でやはり、不要であるなぁと思うようになった。
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この種の取り組みにおいては、おおきくわけると3つ、細かくわけると6つの役割がある。
①決裁
売上や利益の目標設定を行う
個別の費用投下案件の諾否を判断する
②旗振り
テーマやコンセプトを探索・立案する
人に取り組みの意義を伝え、協力を募る
③具現化
製品やサービス、事業構造を発案する
試作品や宣伝広告素材を作る
極端な言い方をすると、こうした各種の役割の組織的な分担方法には、ふたつのパターンしかない。
パターンA
①>②>③の順番で、以下のような形で、天下り式に権限設定がされている、という組織構造が典型的である。
①→株主、経営者(または顧問、社外取)
②→役員〜部長層(またはコンサル)
③→課長〜メンバー層(またはベンダ)
こうした座組みは、ルーチンワークの世界を円滑に回すためには、ごく自然な業務分掌ではあるのだが、こういうふうな分担が、プロジェクトの世界では、かえって阻害要因になるから、不思議である。
なぜ、うまくいかないのか。
この組織形態は、ルーチンワークにおいては無駄なコミュニケーションを省いてくれる。上層部が決めてくれたことを、実務側は、どうすれば実現できるかだけ考える、という分業が、成り立つからだ。
一方で、行為の意図と結果が相関しない、プロジェクト状況においては、逆効果となる。
こと新規事業においては、各種の局所的な意思疎通の動機が、往々にして、取り組みの成就ではなく、個人の保身に置かれてしまうから最悪である。
なぜ、最悪なのか。
その場に形成されるのは、新規事業を生み出す取り組みではなく、「新規事業を作りたい主体者がいる、という文脈によって発生する、お金や機会、評価等の社会的資源の分捕り合戦」である。
その戦場に参加する関係各位は、獲得したい資源に見合う貢献をしているのだと、説明し、説得せねばならない。しかし、各自がそれに血道をあげればあげるほど、「なにも生まれない」という現実だけが、進行していく。
つまりそれは「新規事業の夢の抜け殻」みたいなものである。
既存事業で、汗水流して稼いだ利益を、抜け殻に注ぐことほど虚しい話はないが、ひとたびこうした構図にはまりこんでしまうと、抜け出すことが難しくなるから恐ろしい。蟻地獄みたいな話である。
パターンB
上記の対極にあるのが、①②③のすべてを、株主兼経営者が、まるごと担ってしまう、という形である。
そこで生まれるのは、スピード感である。
実際のところ、ルーチンワークを長期的に存続させるためには、こうした座組みは愚の骨頂であるが、プロジェクト状況を短期的に生き抜くのであれば、こういう形にするのが、一番早いのである。
その主体者に、必要な能力があれば、立ち所に取り組みは形になる。
なければないで、早めに終わってしまうわけだが、責任の所在も明らかであることだし、社会全体としてみたら、後腐れもないし、悪い話ではない。
ただし、致命的なトレードオフとして、客観性や組織的な再現性が損なわれる、という欠点がある。
また、こうした座組みのトップは常に孤独であり、本人が有能であればあるほど、手足として動いてほしい関係者のスピード不足を、物足りなく感じる。
結果として、事業としては成り立ったとしても、往々にして、関わる人の心には、恨みが残るものである。
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新規事業開発という問題のゴールとは、事業活動の具体像を導き出すことである。そして、先述した①②③の問題は、この、全体的な問題の部分集合である。この問題の難しいところは、個別の問題に、順番に、独立して答えを与えていっても、いつまで経っても、最終的な答えにはならないよ、ということだ。
新規事業を成就させたければ、すべてに対して、同時に解を生起せしめなければならない。
それは、知恵の輪を解く瞬間に似ている。
新規事業開発とは、この問題を、複数の立場を有する人間同士が、よってたかって関係しあいながら、解く、ということである。
たとえるならば、それは、まったく知らない外国の言葉の、クロスワードパズルを解くようなものである。目隠しをして絡まり合ったテグスを解こうとするようなものである。
そんなことは、不可能である。
だからこそ、世間には、新規事業がうまくいかない人や法人が、いくらでも、どこにでも、転がっている。
単純に考えると、パターンAよりはBのほうが、この種の問題は解き易いように思える。しかし、Bならば必ず解ける、というわけでもないから要注意である。
うまくいかない要因はシンプルである。関わる一人ひとりのエゴ(仕事がどうなるかより、自分の立ち位置、収入や評価を優先させる心の動き)が摩擦を生じさせ、結果として、最終的には、関わる人たちの生命感や躍動感を損なってしまう、ということである。
新規事業開発とは、なんとまぁ、罪作りなプロジェクトであることか。
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ことほどさように、新規事業開発とは、それを主題化した瞬間に、永遠に叶わぬ夢になってしまう、といった類のものであるわけだが、世の中には、くんずほぐれつしているうちに、そういうふうにこんがらがった問題が、偶然解ける、ということも、しばしば、あるから不思議である。
実際のところ、我々の日常を見渡してみると、この世は「うまくいった新規事業」に満ち溢れている。なぜなら、あらゆる既存事業とは、うまくいった新規事業の成れの果てだからだ。
我々の日常で接するあらゆる人工物は、もとをただせば、成就した新規事業の賜物である。
あんなに不可能なものが、こんなに満ち溢れている、というのは、実に興味深いパラドックスではないか。
その矛盾に着目し、つぶさに観察してみると、それらは「新規事業を作りたい、成功させたい」という、意思なり目標なり執念なりの賜物とは限らないのである。いやむしろ、実態としては、「色々やっていたら、そうなった」ということの方が、圧倒的大多数であり、新規事業成功のための知識やノウハウを、しこたまお勉強してそのゴールを迎えた、なんてことは、レアケース中のレアケースなのである。
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整理すると、こうである。
世の中には、新規事業を成功したくてしたくてたまらない、しかし、なにをやって、いつまで経っても、もうまくいかない人もいる。
一方で、そんなつもりもないのに、いつのまにか、やっていることが事業になってしまう人もいる。
ここで、ひとつの仮説が生まれる。
新規事業というものは、ある因子によって成就せしめられる
その因子が取り組みの正否に寄与する度合いは「10割」である
つまり、その因子が作用した場合には必ず成就し、しなかった場合には、必ず駄目になる、そんな因子が存在する
その因子は、新規事業そのものを主題化する人に対しては、活性度を著しく低下させる
だからといって、主題化しない人に対して自発的に働きかけることもない
それは、一言で名指しできるような、シンプルで、一般的な概念である
その言葉は、個人か法人か等の、規模に関わらず普遍的なものである
その因子を、「◯◯」と仮に呼ぶとするならば、読者諸兄はここにいかなる単語を挿入するだろうか。
筆者は、ここに該当するひとつの言葉を腹案として有している。そして、そのひと言は、ここで明かしてしまうと、人を食ったような実に莫迦莫迦しい解答なのである。
まぁ、そもそもこの仮説自体がすでに、人を食ったような実に莫迦莫迦しい仮説なのであるけれども。
しかし筆者にとっては、これこそが追求すべき喫緊の問題だと、感じられてならないのである。
この◯◯の言葉を確定せしめることができたならば、それはまさに快哉を叫ぶべき、愉快なコンセプトとなることは、間違いない。
そして、新規事業という業病に悩めるあらゆる人々の心を軽くすることも、不可能ではない。
真剣に付き合いたいと思ってくださる、奇特な方がいれば、是非とも討議を重ねてみたいと思っている。まずは、貴兄なりの◯◯を、筆者に寄せられたい。もし希望されるなら、その当否について、回答を差し上げたいと思っているのだが、いかがだろうか。