DXとか、言うな!
色んな仕事をしているなかで、「DX」みたいなキラキラした言い方の虚構性について、ときどき無性に腹立たしくなることがある。
法人も人間なので、重ねた年齢の数だけ、未練もあれば、ルサンチマンも、恨みつらみも、膨大なものが積み重なっている。そこには、将来への希望や不安だとか、欲望とか恐怖とか、色んなものが、眠っている。
デジタルを契機として、仕事や組織のあり方を根本から変えようぜ、という話は、そういう部分に井戸を掘っていく、ということから、逃げられないのではないか。
ということは、技術論のもうかた一方に、鎮魂とか、慰霊とか、あるいは調伏とか、そういう感性も必要なのではないか。
と、そんなことを、思ったのだった。
そういうことを、ビジネスとしている業者は数知れずある。しかし本当は、そういう取り組みへの支援を、ビジネスとして捉えるのには限界があるのだ。どちらかというと、奉仕に近い。
まぁ、もしかしたら、本当はおどろおどろしい話だって、みんな心の底ではわかっているから、キラキラと表現したくなってしまうのかもしれないのだけれども。