仏教的位階が意味することについて
仏教諸宗の位階についての用語は実に多様である。多様というよりはむしろ、混乱、乱立といもいうべき様相を呈している。
概念の多様性は、言語の多様性に起因するところが大きい。マガダ語ないし、サンスクリット、パーリ語における音が、それに近い形で保存されてきた言葉もあれば、漢語によって意訳された言葉、さらに日本語によって日常化された言葉もある。異文化、異国情緒のある言葉のほうが、なんとなく有り難い感じがするのは、いまも昔も変わらない。
あるいは、キリスト教における、神、精霊、神の子、使徒、守護天使、聖人、といった諸概念との対応についても考慮すべきかもしれない。イスラーム教で偶像崇拝が否定されたのは、こうした混乱を嫌ったからなのかもしれない。
ともあれ、全体を俯瞰していくと、人類は、延々と車輪の再発明、我田引水を繰り返してきたのだということがよく分かる。これらの用語が乱立すること自体が、「我こそは」という我執の産物であるように見える。だとしたら、悟りの境地をあらわそうとする言葉が、結果としてそれを否定しているのは、仏教最大の皮肉である。
以下、ことわりのないものは取り急ぎwikiから引いた。
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仏陀
(wiki)
(佛陀、ぶつだ、ぶっだ、梵: बुद्ध、Buddha)
仏やほとけとも称され、悟りの最高位「仏の悟り」を開いた人を指す。歴史的には実在した釈迦を意味する。
ブッダ(「仏陀」は漢字による音写の一つ)という呼称は、インドでは仏教の成立以前から使われていた。釈迦が説いた原始仏教では、仏陀は「目覚めた人」を指す普通名詞であり、釈迦だけを指す固有名詞ではなかった。現に原始仏典にはしばしば仏陀の複数形(buddhā)が登場する。
しかし釈迦の死後、初期仏教では、仏教を開いた釈迦ただ一人が仏陀とされるようになった。初期の大乗経典でも燃燈仏や過去七仏や、弥勒菩薩が未来に成仏することなど過去や未来の仏陀の存在を説いたものもあるが、現在の仏陀は釈迦一人だけであり、釈迦の死後には現在まで現れていないとされている意味する。
(日常佛教語)
佛、佛陀
いずれも梵語ブッダ「さとりに到達した人」(原義「目覚めた人」)の写音。一般に「佛」は佛陀の省略形と記されるが、三世紀に漢訳された「般舟三昧経」などを見ると、「完全にさとりに達した」という意味のサンブッダという語を三佛と写していることから見て、佛は佛陀の省略ではなく、そのままブッダの音を写したものであることが知られる。漢訳佛典では、「覚者」とか「智者」と訳される・そして、如来という尊称が用いられる。
①佛教の開祖である歴史上のブッダ。「佛教入門」を見よ。
②ブッダ以前に出たとされる過去佛。
③応身佛。ここに至って、佛に如来・応供・正遍知・明行足・善逝・無上士・調御丈夫・天人師・佛・世尊の十号がありと説かれ、さらに一切智者・一切見者などの修飾辞が数限りなく附加されるに至った。たとえば、「方広大荘厳経」第十一には、じつに二百七十の名称が挙げられる。
④佛教の有神論的な展開とともに無数の佛が出現する。これらはほとんど名称のみで、それに付随する神話もない。それらの中で、阿弥陀如来と大日如来、さらに薬師佛が後世の佛教に大きな意義をもった。
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菩薩
(wiki)
ボーディ・サットヴァ(梵: बोधिसत्त्व, bodhisattva, 巴: bodhisatta)の音写である菩提薩埵の略であり、仏教において一般的には菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する。仏教では、声聞や縁覚とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた。
『華厳経』及び『菩薩瓔珞本業經』では、菩薩の境涯、あるいは修行の階位は、上から妙覚、等覚、十地、十廻向、十行、十住、十信の52の位にまで分けて52位を採用することが多い。
(日常佛教語)
初期の佛教では、「来世においてブッダ(さとりに到達した人)になると運命づけられた人」と理解され、①佛教の開祖ブッダの前生における呼び名とされた。
大乗佛教が興ると、菩薩の意義は神話の世界から解放されて、宗教的に理解され、②「さとりを求めてみずから修行する(自利)とともに、他の者たちをさとりに到達させようと努め(利他)、その功徳により、長い長い修行を経た未来において、佛になる者」と理解された。大乗佛典に見える菩薩はすべてこの意味であるが、佛教における神観の発達とともに多数の佛とならんで、無数の菩薩が存在するに至った。文殊・普賢など、この系列に属するが、また二十五菩薩来迎図における二十五菩薩、密教における金剛界の十六菩薩など、それである。しかし、その多くは名のみあるに過ぎない。
③佛教の有神論的な展開により、異教の神も佛教の中に採り入れられ、未来に佛になる者として菩薩と呼ばれ、尊崇された。観世音菩薩・弥勒菩薩など、それである。
④次いで、佛教教学の偉大な学匠たちも、菩薩と呼ばれた。「今昔」に見える龍樹・提婆・無着・世親などが菩薩と呼ばれているのは、この意味である。これらの学匠は大乗佛教の精神を鼓吹し、利他の行の実践者として崇められた。
⑤中国において、菩薩は高僧に対する尊称あるいは賜号の一となった。たとえば、竺法護(三世紀後半)は訳経により月支菩薩または天竺菩薩と呼ばれ、経典の注釈・僧制の確立で著名な道安は印手菩薩と呼ばれたことが知られる。また晩唐の頃に念佛を奨めたことで知られている大行に唐の僖宗が常精進菩薩の称号を賜ったという。
⑤わが国では、菩薩は朝廷から碩徳の高僧に賜った称号。天平二十一年には、行基に大菩薩が贈られたのが最初であるが、平安朝時代を通じて菩薩号の賜与はなかった。ところが、十四世紀になると、叡尊・忍性・覚盛に菩薩号が贈られ、また日蓮に大菩薩号の贈られたことが知られる。これらは宗教的意義よりも政治的色彩の強い賜号であることが指摘されている。
⑦奈良朝末期に本地垂迹説が興ると、神は悦んで佛法の供養を受けると信ぜられ、神前における読経とともに、神に菩薩号をつけるようになった。
⑧菩薩は柔和な音顔し、衆生に功徳を授けるということから転じて、艷麗な舞姫や美貌の遊女を歌舞の菩薩と呼んだ。
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妙覚
菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位のこと。妙覚の位に達した菩薩は、煩悩を断じ尽くし、智慧を完成させるとされる。天台教義の六即と対応させると、別教の菩薩五十二位の最高位である「妙覚」は、円教の「究竟即」に相当する。
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阿羅漢
阿羅漢(あらかん)はサンスクリット語: अर्हत् , arhat(アルハット)、パーリ語: arahant(アラハント)に由来し、仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。
この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。略称して羅漢ともいう。サンスクリット語 arhat の主格 arhan やパーリ語 arahant の音写語。
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縁覚(独覚)
(えんがく、サンスクリット: pratyeka-buddha、パーリ語:paccekabuddha)
修行者の性質や修行の階位を示す仏教用語で、性質としては仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者(無師独悟)を指す。階位としては菩薩の下とされる。縁覚は寂静な孤独を好むために、説法教化をしないとされる。辟支仏(びゃくしぶつ)や鉢剌医迦仏陀と音写し、師なくしてひとりで悟るので独覚ともいう。
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声聞
(しょうもん、旧字体: 聲聞、梵: श्रावक śrāvaka(シュラーヴァカ); 巴: sāvaka)
仏陀の教えを聞く者、仏陀の声を聞いた者の意で、仏の教えを聞いてさとる者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す。
声聞を、縁覚・菩薩と並べて二乗や三乗の一つに数えるときには、仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者のことを指し、四諦の教えによって修行し四沙門果を悟って身も心も滅した無余涅槃に入ることを目的とする人のことを意味する。
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如来
(wiki)
サンスクリットのタターガタ(梵: तथागत, tathāgata)の漢訳であり、語義は諸説あるが、仏教で釈迦や諸仏の称呼に用いられる。
(日常佛教語)
佛の尊称。梵語タターガタの訳。タターガタとは「そのように(タター)来た(アーガタ)人」という意味で、「そのように」とは過去に理想像を描き、「その人のようにこの世に出現した人」の意である。すなわち、「如来」とは神聖な伝統を背負う者に対する尊称として、まず、①佛教の開祖である歴史上のブッダの呼び名として用いられた。初期の佛典を見ると、ブッダみずからが語ったとされる言葉のなかに、自身の説くところを「如来の説く教え」と述べている。このような所伝は、ブッダが自身の教えを神聖な伝統に基づく権威あるものであるとし、みずからはこの神聖な伝統の継承者であると、みずから自身を権威づけていることを意味する。この神聖な伝統とは、歴史上のブッダの以前に、六名の過去佛がいたとする思想である。こうして、歴史上のブッダは、後世には釈迦佛・釈迦牟尼佛とも、釈迦如来・釈迦牟尼如来とも呼ばれた。
次いで、②後世に出現した多くの「佛」も、如来と呼ばれる。薬師佛は薬師如来とも呼ばれ(薬師瑠璃光如来といわれることもある)、阿彌陀佛は阿弥陀如来とも呼ばれる。また、毘盧遮那佛は後には大日如来と呼ばれた。
なお、如来のことを「如去」といい(「性霊集」八「三世の如去は之に因って成道し」など)、また如来の語源をこのように解する人もある(たとえば「古典大系」本「宇治拾遺」三三四-4)。これは、タターガタという語が、梵語の音韻法則によりタター=アーガタ(如来)とタター=ガタ(如去)の二種に分解されることに基づく。しかし、初期の漢訳においてはタターガタという語は常に「如来」と訳されており、しかも訳者は主としてインド出身者である。これに対し、「如去」という訳語の現れたのは五世紀以降で、如来という語に特殊な驚愕的意義を牽強附会しようとするに至って、主として論書の中で見られるに至った。したがって、「如来」の訳語が佛教者の解釈として本来のものであり、語源的にもタター=アーガタと解すべきである。原始経典に見える用法も、この解釈の正しいことを示している。「極楽と地獄」(57-63ページ)を見よ。
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大日、大日如来
(日常佛教語)
「大日」は梵語マハー=ヴァイローチャナ「偉大なる太陽」の訳。摩訶毘盧遮那と写音し、大遍照と訳す。太陽神を報身佛として佛教に採り入れた姿で、真言密教の本尊である。密教の教説では、この世におけるありとあらゆるものは大日如来の智と理のあらわれであるとされ、前者を金剛界、後者を胎蔵界といい、この両者でもって密教の世界観があらわされる。
大日如来の姿は金剛界と胎蔵界とでは異なり、前者では白色で五智の宝冠を頂き、大智拳印を結んで、蓮華台上に結跏趺坐しており、後者では金色と髪髻の冠を頂き、法界定印を結んで赤色の蓮華の上に坐する。
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阿弥陀、阿弥陀如来
(日常佛教語)
佛の名。阿弥陀は梵語アミタ(俗語形アミダ)の写音で、「計測しえられない」とか「無量の」という意味の語である。佛の名としてはアミターユス(無量寿)あるいはアミターバ(無量光)の略語である。歴史的に見ると、はじめに無量寿佛が出て、この佛がのちに無量光の名をもつに至ったことが知られるが、わが国では弘く阿彌陀佛・阿弥陀如来の名で知られる。西方にありとされる極楽浄土を主宰する佛で、浄土宗や浄土真宗など浄土教の本尊である。
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薬師如来
(日常佛教語)
詳しくは薬師瑠璃光如来といい、薬師佛ともいう。東方浄瑠璃世界の教主で、誓願を発して衆生の病患を救うとともに、衆生の持病である無明をも癒やす佛。その像は、左手に薬壺を持ち、右手に施無畏印を結ぶのが普通である。
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明王
(みょうおう、梵: विद्याराज vidyā-rāja)
密教における尊格及び称号で、如来の変化身ともされる。
「明」は、本来 サンスクリット語 विद्या(vidyā)で表し、「知識(ज्ञान)」「学問」を意味する一般的な名詞である。密教の文脈においては、特に仏が説いた真言、呪文のことを指し、明あるいは明呪と漢訳される。そして「明王」という言葉は、「呪文の王者」を意味し、真言の別名であるが、一般的には密教特有の尊格の意味で用いられる。
一般に、密教における最高仏尊大日如来の命を受け、仏教に未だ帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担った仏尊を指す。この尊格は強剛難化な衆生を教えに導く役割を負っているため教令身あるいは教令輪身という名で呼ばれる。或いは全ての明王は、大日如来が仏教に帰依しない強情な民衆を力ずくでも帰依させる為、自ら変化した仏であるとも伝えられる。そのため、仏の教えに従順でない者たちに対して恐ろしげな姿形を現して調伏し、また教化する仏として存在している。
明王は一般的に「天」と名の付く天部の神々(毘沙門天、帝釈天、弁才天等)と同様に、古代インド神話に登場する神々、特に夜叉や阿修羅と呼ばれた悪鬼神が仏教に包括されて善の神となった者が多いのが特徴である。
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明神、大明神
古代において神を指す名称としては、神社名を冠した「大神」という呼び方が存在していた。「明神」という言葉が文献上最初に現れたのは、天平3年(731年)の奥書を持つ『住吉大社神代記』であり、そこでは住吉大社の祭神である「底筒男命・中筒男命・表筒男命」の三柱を「住吉大明神」と記している。平安時代における記述においては特別に崇敬される神が明神もしくは大明神と呼ばれていた。同一資料において同じ神を明神・大明神の両方で呼んでいる例もあり、明確な区別がされないこともあった。
その後本地垂迹説の勃興により、これら大明神が日本の民を救済するために現れた仏教の仏の化身であると考えられるようになった。
仁平2年(1152年)以前に成立したと見られる『注好選』においては、釈迦が「大沙明神」として現世に現れたこと、また『悲華経』に「我滅度後、於末法中、現大明神、広度衆生」という言葉があるという事が紹介されている。
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大師
中国・日本において、高徳な僧に対する尊称。朝廷から勅賜の形で贈られる事が多く、多くは諡号(本人の死後に送られる尊称、おくりな)である。
大師という言葉は梵語の「シャーストリ」を漢訳したもので、他に天人師、善知識、大導師などとも訳される。経典の用法として、釈迦を「釈迦大師」と呼ぶ例や、仏法そのものを大師と呼ぶ例がある。
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開祖、祖師
一般に開祖とは伝統宗教の創始者を指し、伝統宗教内で分立した宗派の創始者は宗祖・派祖などと呼ばれる。新宗教の創始者を指す場合教祖と呼ばれる場合が多い。
ある宗教について、誰が開祖に当たるのかは教団内、研究者、一般社会の人びとなど立場によって見解が異なる場合があり、必ずしも明確では無い。島薗進は、典型的な教祖には、絶対的な指導者として仰ぐ集団が存在すること、その指導者が全く新しい理念や信仰形式を創出したと看做されていること、という2つの要素が伴っていると述べている。
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法師
本来、法師とは仏教、及び仏教の教義が説かれている経典に詳しく、人の師となるほどの学識・経験を備えた僧侶に対する敬称。戒律に詳しい僧侶を律師、禅定修行に長けた者を禅師と呼称する事と同様。
『法華経』法師品では、釈迦が薬王菩薩に法師のすべき事として『法華経』を受持(暗記)、読誦、解説、書写する事を述べている。
文字の法師 - 経典ばかり読誦していて実践的な修行を行わない僧侶に対する蔑称。暗証の禅師と対。
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