概念と身体(あるいは思考の型の陥穽について)
ある人が、拙文(「構想の順序」試論)を読んで、ある人の文章に似ていると言ってくださったそうで、実際にその文章(残念なペルソナの話)を紹介していただき、読んでみたら、びっくりするほど他人とは思えない文章で、喫驚した。 書き味も似ているし、問題意識も似ている。思考のアプローチも似ている。
違いは、扱っているモチーフだけ、といってもいいかもしれない。モチーフが違うとはいっても「実務を改善させるメソドロジー」という意味では、かなり近い。
おそらく、持って生まれた資質や性格、大学で勉強したこと、社会人として経験してきた業務など、色んな部分が似ているからなのだろう、と、思う。
それらも要素として大きいと思われるが、ただ、それ以上に、見えている現実の水準や、それに対して持っている問題意識の近さこそが、ポイントなのだと思う。
つまり、「実務を改善させるメソドロジー」について、真剣かつ誠実に、基本的にはアカデミックに、若干皮肉も込めて、つまり知的営為としてレベルの高い文章を書こうとする、という姿勢が共通しているから、結果的に、書き味も似ていったのではないか。そういうふうに思った。
その内実を語るのは、あまりにも困難だが、これを機に、書きながら考えてみる。
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「ペルソナ」も「プ譜」も、その他多くのあらゆるMBAビジネススクール的理論やスタートアップ理論も、単純に言えば「概念化」「抽象化」こそが、目指す第一のものである。よい概念化は多くの個別案件を助けてくれる。効率化してくれる。それが「思考の型」の有り難みである。
しかし「思考の型」は、それを扱う手つきを誤った瞬間、「残念化」する。
プロジェクトワークで「残念化」が始まると、残念であることに気づかないまま、時間とお金を浪費してしまう、という悲劇が起きる。
ただまぁ、それで終わって、サンクコストを諦めるだけでいいなら、まだマシなのである。
「ある瞬間に、これはもしかしたら、残念な状況ではないのかと、誰かが気づく」
「そもそも論が問題提起される」
「賛否両論が起きる」
「本来のプロジェクトの目的をいかに達成するかよりも、残念か、残念じゃないかの位置づけのほうが気になってしまう」
思考の迷走の始まりである。
世の中、たいていのプロジェクトは迷走状態にあるわけだが、なかでも、大組織における迷走は度し難い。なぜか。「残念なぐらいのほうが、むしろ都合がいい」という利害が存在することである。
日々のお金の流れで生き死にがかかっている事業組織においては、無駄は自然淘汰されやすいが、大組織では(なかでも本部組織では特に)当面の生き死にの危機感は薄いため、なんともいえない微温的な時空が、そこに出現する。
(一応補足すると、前者の組織において「眼の前の生き死にに汲々とするがために、無駄を抱え込めない」のは、それはそれで問題だったりもする。)
ちなみに、ルーチンワーク化された業務と「概念化、ないし型化」の相性はいい。マニュアルどおりにサクサク進めていけば、それが成果に繋がる。
「未知なる部分」がたっぷりと含まれる企画的(あるいは非定型的、ないし変革的な)業務では、「抽象」を「眼の前の現実」に適用するのは、大変困難なことである。そういう場で、型を猿真似し、なぞるようなことでは、なにも進まない。進まないどころか、ものごとを後退させるばかりである。
概念を身体化できていない状態を「頭でっかち」という。
病状が悪化すると
「残念な取り組みの収拾がつかなくなり、また新たなメソドロジーを導入する」
「それもまた残念化してしまう」
「組織全体の駄目なムードが隠しきれなくなる」
「残念であることは断じて認めない、というお気持ちが、組織内の有力者によって表明される」
「実務よりも空気の読み合いばかりが進行していく」
地獄の始まりである。
ここぞまさに、一丁目一番地である。
しかし、その傍らの、賽の河原で石を積む人たちの会話は、いたって呑気なものである。
「うちらって、残念だよねぇ」
「まぁ、いつものことだから」
「そうだねぇ」
「あ、また社長がなんか新しいやつに飛びついてる」
「結局、なにも変わらないし、変えられないのにね」
「ほっとけよ、ほら、無駄口はよして、仕事しようぜ」
大企業的な風通しの悪さ、保守的体質、受け身な姿勢は、こうしたプロセスを長年積み重ねてきた結果の賜物である。
それはそれで、その事業体が向き合ってきたルーチンワークへの、適応の結果でもあるから、一概に否定することもできない。
(実は、そのことこそが、現代プロジェクトにおける諸問題の、本質である。)
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「残念なペルソナの話」は、「プロジェクトワークのなかで、抽象を現実に落とし込むことの困難」を超克するために書かれている、と、感じる。
それは、普通にルーチンワークの惰性を生きる人には求められない、むしろ耳の痛い、聞きたくない話である。
型を求めるのはなぜか。ラクをしたいからだ。ラクができると期待して、型に飛びついている。ペルソナを書けといったり書くなといったり、なんなんだよ。意味があるといったり、ないといったり、なんなんだよ。結論を述べてくれよ。具体的に、役に立つ話だけを、してくれよ。
そういうふうに思っているうちは、地獄から解脱することは、できないのだ。(別に地獄で構わない、というタフな人も多い)
そんな心理も理解しつつ、むしろだからこそ、思想を届けようとする息遣いが、そのレポートにあると感じた。
大袈裟にいえば、そこにあるのは、真善美への、畏怖である。
こういうことを考えていると、つくづく孤独を感じるものである。その孤独を乗り越えようとしている時点で、それはビジネスドキュメントというよりは、文学に近い。