超越論
実はwikipediaの用語解説の節がめちゃくちゃわかりやすいのでリンク先を見てほしい
こういう記述は書き換えられそうなので以下に引用しておく
西洋の哲学史においては、古代ギリシャのピタゴラス教団・エレア派(総じて「イタリア学派」)・プラトン以来、本質存在・真実存在は、知覚・経験の対象とはならない、それらを超えたもの、すなわち「超越的」なものであるという考え方が、主流の一角を占めてきた。 (もちろん、「この世の摂理は人智を超える、神々のみぞ知る」といった発想自体は、(他の地域と同様に)哲学の登場以前、神話の時代から脈々と継承されてきた発想である。)
これらの哲学者達は、こうした知覚・経験を超えた「超越的」な真実在には、理性・論理・数学などによってのみ接近・到達できると考えていた。
こうした古代ギリシャ特有の「理性主義」「論理主義」的発想・作法は、キリスト教文化との混交・融合によって、中世の神学(スコラ学)へと受け継がれ、更には近代哲学の大陸合理論にも継承されるが、そもそも根拠となる「理性」自体の規定が曖昧なため、そこで生み出される認識内容は「独断論」のそしりを免れないものであった。また他方で、経験に依拠するイギリス経験論においては、端から経験を超えた「超越的」な真実在についての認識など期待できるはずもなく、ヒュームの懐疑論に至ってそれは決定的なものとなった。
こうした状況を目の当たりにしたカントは、「理性自体の吟味・批判」を通じて、「人間の適正な理性的認識は、どこまで可能なのか」「人間の理性は、経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)と、どのように関わるべきなのか、関わり得るのか」についての、境界策定・基準設定(メタ規定)を行うことで、「超越的」なものに対する考察・関与(すなわち形而上学)の余地を、適正な形で復興しようと試みた。これがカントの「批判哲学」であり、「超越論哲学」(先験哲学)である。
1. 古くからアプリオリ(経験を経由せず、理性・論理によって確実であると検証できるよう)な事実こそがゆるぎない真実なのだという考え方があった これが「超越的」な真実
avashe.iconちなみに理性のみということは経験によって検証されてない「思弁的な仮定」がたくさん入り込んでくるので、超越的観念にはむしろ普通に神とか入ってきます
理性や論理のみで考えたとき、神秘的な観念が入ってくるわけないだろみたいな感覚は宗教的な事物を忌避しがちな界隈の発想であり、伝統的な西洋思想ではそうではないようです
2. しかしこれら「理性主義」「論理主義」な発想は経験論に強く批判された
経験論は私たちの知識は全て経験から成り立っているという立場
理性信仰の立場と逆に、私たちは主観というフィルターを通した世界から出られないという立場があると理解すればOK
3. カントは理性主義と経験主義的な立場を調停し、人間の理性の振る舞いがどこまで有効で、どこに限界があるかについて論じた
超越的なものに関与する余地の諸条件や限界について考察するというメタ的なものなので、超越論的なのである
avashe.icon
哲学の観念は歴史的な変遷が重要になりがち
ある哲学的観念が意味不明なときは、大体文脈がちゃんと説明されてないときなので、一旦スルーして類似した話題の別の本や哲学史の本にあたって戻ってくると分かったりする
フッサールはもともと反カント的であったが、現象学のバージョンアップを重ねる過程で接近した
とはいえ、初めから思弁的にアプリオリな条件について考えるカントとは異なり、五感の直接経験の観察を基礎としているフッサールとは方法が違うことに注意 フッサールの現象学は方法論でもあり、エポケーによって直接経験を観察することが重要である