JW-10以前
1972年、河田勉は京都大学工学部電気工学科の長尾真助教授の下に1年間研究生として入室した。研究生とは、教官が企業から研修に来る技術者や、大学院浪人などを個人的に預かる制度である。ここで、天野真家に邂逅することになる。 河田は、長尾研究室で「日本語分析プログラム」の研究を行った。これは、文の統語解析であって、文節の形態素解析ではなく、かな漢字変換とは無関係な研究である。 河田が京大の研究生として送られて来た裏には総合研究所の彼の上司である森健一の戦略によるものがある。
天野が直接に河田から聞いたところでは、森は「これからは日本語の計算機処理が重要になる。」しかし、社内には自然言語処理の専門家は皆無であるということで、自然言語処理の上流に当たる意味論、語用論の研究をしている長尾真助教授に依頼して河田を研究生として預けたのであった。
かな漢字変換という用語を作り出し、直接に研究していたのは九州大学の栗原俊彦教授の系統の人々であった。 1973年、計算言語学を修めた天野は大学院を修了し、研究生を終えた河田とともに上京し東芝総合研究所で職務に就いた。 1973~1974年、天野は、ここで意味論の研究を、河田は国のプロジェクトである漢字OCRの研究を行った。 1974年度早々、河田は京大の研究生であった成果をどう利用するかを情報システム研究所長の玄地宏に問われ、その際色々な応用を挙げ、その一つとしてかな漢字変換を挙げて、その開発をすることになったと天野に告げた。 「かな漢字変換」の名が研究テーマとして初めて現れたのはこの1974年度の事であって、それ以前には皆無であった。後に河田はこの時の思い出をブログに書き天野にそれを送ってきた。彼の主張は「かな漢字変換の提案はこの時、私がしたものだ」というものである。
九大出身の河田はかな漢字変換を研究している九大の研究生になっておらず、京大ではかな漢字変換とは無関係の統語論の研究をしていて、研究所に帰ってからも当初一切、かな漢字変換などは行っていない。
天野と言えば、国立国語研究所の分類語彙表を用いて意味標識を単語に割当て、選択制限規則により意味処理をする研究をしていた。Katz and Fodorの選択制限方式に使う意味標識を分類語彙表により拡張しようとしていた。 https://livedoor.blogimg.jp/wp_story/imgs/1/b/1b76e534.jpg
JW-10の開発物語で、辞書を作る際に従来の国語辞書だけでなく、分類語彙表という特殊な書籍が出てくるのはその名残である。