1974年
1973~1974年、天野は、ここで意味論の研究を、河田は国のプロジェクトである漢字OCRの研究を行った。 1974年度早々、河田は京大の研究生であった成果をどう利用するかを情報システム研究所長の玄地宏に問われ、その際色々な応用を挙げ、その一つとしてかな漢字変換を挙げて、その開発をすることになったと天野に告げた。「かな漢字変換」の名が初めて現れたのはこの1974年度の事であって、それ以前には皆無であった。後に河田はこの時の思い出をブログに書き天野にそれを送ってきた。彼の主張は「かな漢字変換の提案はこの時、私がしたものだ」ということである。 九大の栗原氏の話は? 増井俊之.icon
「JW-10」で言及しています。後継者の方々から資料を頂いているので、別途のエピソードで語っても良いかもしれません。既に、ホームページでは詳しく述べています。
九大出身の河田はかな漢字変換を研究している九大の研究生になっておらず、京大では統語論の研究をしていて、研究所に帰ってからも1974年までは、一切かな漢字変換などは行っていない。 JW-10の開発物語で、辞書を作る際に従来の国語辞書だけでなく、分類語彙表が出てくるのはその名残である。
https://livedoor.blogimg.jp/wp_story/imgs/1/b/1b76e534.jpg