シュリックによる「ショーペンハウアー的ペシミズム」と「それに対するニーチェ的な解答」の解釈
人生の目的(意味)は、活動の先にあるものではなく、活動そのものに置かれるべきだという考え方
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「人は目標を自らに定め、それに向かっている間は希望によって確かに元気づけられるが、同時に満たされない欲求の苦痛によってさいなまれる。しかしながら、ひとたび目標が達せられると、勝利の最初の興奮が過ぎ去ってしまえば、わびしい気分が続くことは避けられない。空しさが残り、それは、痛みを伴う新しい熱望の出現、つまり新しい諸目標の設定によって見かけ上は目的を見出す。新たにゲームが始まり、生存は苦痛と退屈の間を休むことなくふらふら揺れ続けることを運命づけられているように見える。それは、死の虚無においてようやく終わる。これが、ショーペンハウアーが生についての自らのペシミスティックな見解の基礎とした有名な考え方である」(Schlick 1979: 112-113)。このショーペンハウアー的ペシミズムに対するニーチェ的な解答として、シュリックは次のように自らの考えを提示する。「否、人生とは行動と活動を意味する。もし私たちが人生に意味を見出したいのであれば、自らの目的と価値をそれ自身の内に、いかなる外部の諸目標からも独立に持つような活動を探し求めなければならない。......もしそのような活動が存在するならば、......そのとき、単なる活動の終着点にして生存の休憩地点にすぎないものにとどまらない、目的それ自体が見出されるのだ」(Schlick 1979: 114)。 /icons/hr.icon
「外部の諸目標からも独立に持つような活動」というのはこれに近いか?
「ゲーム説」というのは大雑把に言えば、この引用で言われている「自らの目的と価値をそれ自身の内に、いかなる外部の諸目標からも独立に持つような活動」(≒ 自己目的的活動)を創ろうという考え方 そしてなぜ「自己目的的活動」が「人生の意味を与える」のかといえば、「自己目的的活動」がフロー状態をもたらすからだということになる気がする この点についてはp. 71の注(8)で明言されていた