「ゲーム説」は「ショーペンハウアー的ペシミズム」を乗り越えられているのか?
「ショーペンハウアー的ペシミズム」とは人生の目的を活動の先に求めた場合、その目的を達成してしまったらまた新しい目的を見つけなければならないということ? この理屈は「ゲーム説」が提唱するように、目的を「活動の先のもの」から「活動そのもの」に移行しても当てはまってしまうのではないか?というのも、多分フロー状態をもたらすような何らかの「自己目的的活動」を創造できたとしても、ずっとやっていたら飽きてしまい、また新しく「自己目的的活動」を考える……ということは起きそうであるから
新しい自己目的的活動に移ることは必ずしも悪いことだとは思われない/arpla/久住哲.icon ramen.iconそれは自分もそう思うのですが、この論文だと筆者は上の「ショーペンハウアー的ペシミズム」を乗り越えるものとして「ゲーム説」を提唱しているように思われるので、それは本当に達成されているのか?というのが自分の疑問です
そして「新しい目的的活動に移ることは問題ない」と考える場合、そもそも「ショーペンハウアー的ペシミズム」における「目標を達成したらまた新しい目標を探して、それを達成したらさらにまた新しい目標を探して……」というのも問題ないと考えられるような気がする
ニーチェを読んでないので推測だが、ここでニーチェのいう「いかなる外部の諸目標からも独立に持つような活動」というのはもうそれ以上新しいものに移り変わる必要のない究極的な活動のことを指しているんじゃないだろうか? ニーチェは何が上のような「活動」に当たると考えたのか単純に気になる