学びにおいて社会性/関係性は重要な要素ではあるけれども、学びというプロセスが本人の内面の深いところを通過する以上、学びには必ず「独学」という側面がある。
もちろん、誰かと机を横に並べて学んでいることもあるでしょう。
誰かに直接教えを乞うこともある。
その行為は一般的には独学とは言わないかもしれない。
しかし、教室でみんなと一緒に学んでいようが、その内容を自分の世界の中に取り込み、内省して、学びへと転換していくのは他ならぬ「自分独り」である以上、全ては「独学」なのです。
「独学」とはいわゆる「意識高い」系の人だけの活動ではなく、「学び」の本質をあらわす一側面なのだろう。
「学び」とは常に「独学」である、というのはあながち間違いではない。
だから、「学び」を考えるときには、「学ぶ主体」に目を向けることは避けて通れない。
「学び」において「自分」は、「学ぶ主体」であると同時に「学ばれる(変化させられる)客体」でもある。
ここ補足が必要
この二面性に思い至るメタ認知がないと、コンテンツを浴びる(通過する)だけの学びになってしまったり、脳死状態で大量の漢字の書き取りをするような「時間の経過」こそが学びであるという苦役観にまみれたものになってしまう。
ここも補足が必要
コンテンツを浴びる(通過する)だけの学びのイメージに近いのがこちら。
【引用】《気の利いた話を人に話すだけのルーターのような人生》という言葉の辛辣性に背筋が寒くなる。
学びにおける社会性/関係性を重視する【引用】人は無から学ぶのではないし、自分だけで学ぶわけでもない。人は人から、そして人々の中で学ぶ。とはまた逆の視点。
【引用】人は無から学ぶのではないし、自分だけで学ぶわけでもない。人は人から、そして人々の中で学ぶ。はむしろ、学びという活動/現象は、非日常的な場所やコンテンツの中だけで発動/発生するのではなく、日常のなかで発見/抽出していくものだからこそ、「良い学び」は「良い生き方」につながる。に対する標語なのかも。
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#2024/07/04
『独学の地図|荒木博行』
荒木博行
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