【引用】《気の利いた話を人に話すだけのルーターのような人生》という言葉の辛辣性に背筋が寒くなる。
《気の利いた話を人に話すだけのルーターのような人生》という言葉の辛辣性に背筋が寒くなる。いわゆる〈コミュ力〉だ。こういう悪い意味での〈コミュ力〉で乗り切ってきた人は、《持論》を求められる場に置かれると身動きが取れなくなる。文章指導をしていると、そういう人に出会うことは少なくない。彼らは、考えるときに辛そうな顔を見せる。そういう顔をしなければ考えられないのを見るのは、辛い。
《持論》とはもちろん、〈正解〉である必要はない。〈仮説〉で十分。〈仮説〉は、《自分で考えて自分なりの答え》とあるように、「私は●●だと考える。なぜならば」という語法を取る。「私は」という主語性を持つという点で、〈仮説〉すなわち《持論》は、〈自己認識や他者意識〉につながる。
その人が〈コミュ力〉で乗り切ってきた人かどうかによらず、私が〈書く〉という領域において身につけてほしいと思って繰り返し伝えているのは、《自分がゼロ》にならないための《持論》を持つこと、すなわち、《持論》の素になる〈自己認識や他者意識〉を育んでほしいということなのかもしれない。
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