「学びとは面白いものである」という感覚を持ちにくいのは、「他者が立てた問いに答えを出す」という非自由研究型の学びが圧倒的多数を占めるから
「他者が立てた問いに答えを出す」という構図は、大人になっても継続しています。
たとえば資格の勉強などはその典型ですが、問いそのものを立てる権利は自分にはないという意味で、多くのビジネスパーソン向けの学びは「非自由研究型」の範疇のものが圧倒的多数です。
しかし、問いの設定権を奪われた非自由研究型学習は、言葉を選ばずに言えば、正直面白くありません。
私たちは与えられた問いに対して、賢く答えを出すマシーンではないのです。
自分の中から湧き出る問いのない、「空疎」な学びが周りに溢れすぎているのかもしれない。
《問いそのものを立てる権利は自分にはない》《問いの設定権を奪われた》《与えられた問いに対して、賢く答えを出すマシーン》
これらの表現からは「自分がない」感じを強く受けてしまう。
いや、ちょっと違うかな。
他者が立てた問いに答えを出すという学びも、学びの段階のひとつとして必要ではある。
問題なのは、それ「だけ」が学びだと感じてしまう視野狭窄にある。
自分がない空疎な感じを同じように受けるのがこちら。
このなかでは、《持論》がないことを《自分がゼロ》と呼んでいるが、これも空疎のひとつ。
自分で問いを立てるということは、自分を持つということなのだろう。
どんなことを答えるか(何を言うか)、ではなく、どんなことを問うのか(何を考えるのか)によって、自分という器が充填される。
人間と機械の関係としても読める。
「生成AIがなんでもやってくれる」という言い方があるが、その生成物の良し悪しを判断する人間が依然残るという意味では、「なんでもやってくれる」というのは眉唾だと思っている。
また、生成AIの活用シーンとして、「ざっと作ってもらってからなおすので時間短縮」というものがあるが、これができる人って結局、生成AIなしで自分がちゃんと作れる人なんじゃないだろうか。
ちゃんと作れる人(質を目利きできる人)が、そのための時間(という量)を節約するという使い方。
質を目利きできない人は、ざっと作ってもらったものを「正しく」なおすことはできないのだから、結局のところ、生成AIがあったからといって状況は変わらない。
どこまで行っても人間と機械の関係はこういう「役割分担」の域を出ないと思っている。
とすると、人間の側に求められる役割とは、「正解ではなくて、その判断基準となる思いや信念」という意味での「自分を持っている」ということ。
ここでの「問い」も、「自分」のひとつ。
リスキリングやリカレント教育というのは、人間性に軸足を置く教育学の言葉というよりは、人的リソースの効果的/効率的活用という経営学の言葉なんだよね。
人的「リソース」を、人的「資源」から人的「資本」へと呼び替える潮流はあるが、これとて人間性回復という文脈ではなく、企業から見たときの効果性/効率性を高めるためのパラダイムシフト感を醸し出すため。
リスキリングやリカレント教育は《非自由研究型》の最たるものだということだ。
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