第5章 重力の本質
記憶野はどのように愛を保管し、愛を形作るのか
記憶とは、世界の全体を含む小さな言葉のことです。誰でも、思い出すという少しの苦労により、時間の経過とともに久しく失われていた場所や人々のイメージを思い浮かべることができます。その場所や人々の印象は、曲がりくねったシナプスの経路に沿って暗号化されたままになっています。どういうわけか、莫大な過去は(脳の)内部で休眠状態になっており、その一部だけが私達の命令により思い起こされます。しかし、記憶はそれ以上のものです: それは、精神世界を定義し、作り出し、保持するものです。神経生理学のパイオニアであるエワルド・ヘリングは次の考えを述べました。
記憶は、私たちが存在してきたという無数の現象を、個別的かつ全体的なものとしてかき集めたものです。そして、もし物質の引力がなければ私たちの体がそれを構成する原子の塵に散らばるだろうということと同様に、私たちの意識もまた、記憶の力で結び付けられ統合され無ければ、それぞれの部分にバラバラに別れてしまうでしょう。 ヘリングの宣言は予言的でした。
すべての個人は、神経という機械の中を流れるスペクトル状の(訳注:様々な色や濃度を持つ)蒸気を生み出す存在として生きており、その蒸気は思考・夢・感覚・熱望など複雜で儚い存在であり、数十億の神経ニューロンの中を漂う複雜な信号が生み出すものです。
ある人の心がスタビリティ(訳注:安定性、変えることのできなさ) ー私達が「個性」として知っているものー を持つのは、それがいくつかの神経ニューロンの通り道として風雪に耐え、残ってきたものだから、ということが、その原因の全てです。
心の可塑性、つまり順応し学習することができる能力は、ニューロンの接続経路が変化することができる場合にのみ、可能となる能力です。記憶の生理的な側面は、これらの適応能力を持つノードの運命を決定します。それは私たちが誰であり、どのような存在になれるのかというマインドの中に存在しています。
したがって、記憶についての科学的理論は、ある種の魂の地図であるといえます。このような地図はみな、心の中にある暗い大陸の輪郭を書き出さなければなりません:
「なぜ人は、意識的な痕跡を残さない、感情的な感覚というものを持っているのでしょうか?」
有史以来、ロマンチックな恋人たちは、繊細で美しくはあるが闇の中でぼんやりとした部分のある熟慮を持ち、お互いを探し求めてきました。アンドレ・マロワは以下のように言っています
「文学の中において人は、他人から愛されるようになった自分の要素が想像もしていなかったものであることに驚かされます」
「相性」という概念があるということそれ自体が、愛の全てを覆い尽くすような万能の型が世界には存在しないということを意味しています。
性的な魅力は、パートナーの選択においてはほんの小さなフィルターという機能のみを有します。身体的なものに惹かれあって付き合い始めたカップルのうち、結婚までにいたるカップルは、ほんの一部です。誰もがそうというわけではありませんが、実際のところ、 誰彼構わず相手を探し求めている人とは、ほとんど誰も結婚しようとはしません。
恋する人は、自分と相手との相性を、まるで子供がジグソーパズルの複数のピースのうちどれがピッタリ自分と合うかを調べるように、その相性を調べます。愛というパズルの動きは、暗いところで密かに行なわれます:
将来のパートナー候補達は、盲目的に狩りをします。
彼らは自分が誰を探しているのかを説明することができません
ほとんどの人は、将来結合しうる相手方のピースのおおよその形を想像している間、自分自身の心もまた驚くべき個別性を持つということにすら気が付きません。
このような繊細に形作られた欲望をどのように育てていったら良いのでしょうか。
誰をどのように愛するべきかについて明敏に識別する方法はあるのでしょうか。
そして、(訳注:そのような知識があったとして)なぜそのような知識は、彼らの心の目からは見えないのでしょうか。
この章で説明した記憶についての科学が発展するより75 年前に、ジグムント・フロイトは意識下にある感情と記憶について説を打ち出し、それが標準的な理論となりました。 フロイトにとっての無意識とは、精神のパンドラの箱でした。それは思考・記憶・考え・衝動のつまった箱であり、それらはあまりにも不快で不安を引き起こすものだったため、意識の中から削除され、精神という地下に閉じ込められました。フロイトは自身の地下貯蔵室を建設する際、記憶とは発掘されたギリシャの古いツボのようにがっしりしている、ということを想定しました:
つまり
その後で抑圧という検閲が弱まった場合、きれいな状態で発掘される、
という想定です。
「抑制された記憶をたどることにより、その記憶は長い期間が経った後でも変化していないことが確認できる」とフロイトは書いています。「無意識は、その後にどんな経験をしたとしても、時の経過により変化することはない」と。
パンドラの箱というメタファーは誘惑的なものです。その中心的なイメージは、古代から語り継がれてきた世界の成り立ちという概念と良く調和しています。
上界にある甘い天国、
その下には悪魔というモンスターがおり、
この惑星の表面は、それら強大な敵同士の戦いの舞台の爪痕が残っている、といったものです
しかし実際のところ、フロイトが打ち立てたスキームは、無意識の心が含むこれやあれやの幻想的な獣達から身を守るための、防弾の盾として機能します。 そのような生き物はこれまで発見されていないため、人はそれ(フロイトの考え方)が幻想に対する過剰な想像力から来るのではなく、抑圧の連鎖に起因しているということを証拠なしに主張することが出来ます(訳注:フロイト派は事実上、自分たちの説の正しさに対する疑いを持つことがない、ということの遠回しな表現)。 フロイトの記憶モデルは、このような髪を逆立てた幽霊の物語を奨励するものであって、それ自身が他に及ぼす悪い影響については全く無自覚です。
「フランクリン事件」と呼ばれる以下の事件は、悪夢のような話です。「抑圧された記憶」について最も悪名高いこのケースは以下のとおりです。
ジョージ・フランクリンは1990年に殺人罪で裁判にかけられました。
というのは、彼の娘のアイリーンが、20年前に父親が8歳の少女を殴り殺したのを突然「思い出した」というものです。
その後にそれを裏付ける目撃者が現れるということはありませんでした。彼を事件に結びつける物的証拠はありませんでした。
指紋、繊維痕、DNAによる証拠もまったくありませんでした。 アイリーンが供述した証言は、何十年も前に発行された新聞が伝える内容とほとんど同じでした。しかし精神医学の専門家は、「アイリーンの忘れられていた『記憶』は全く真正なもの(訳注:bona fide、「誠実な、真実の」を意味するラテン語)であることに疑いの余地はない」と厳かに述べ、陪審はそれを信じました。そしてジョージ・フランクリンは刑務所に行きました。連邦裁判所がその5年後に有罪判決を破棄した後に、その地域の地方検事は事件の再起訴は行なわないということを決定しました。
一時期はスターであった彼の目撃者(訳注:娘のアイリーンのこと)は、その間に証言の信憑性を失っていましたが、その後、父が他に2人を殺していることを「思い出し」ました。しかしDNA鑑定や彼の完全なアリバイにより、彼がその殺人を犯すことは不可能であることが証明されています。
フランクリン事件が繰り広げられたサンマテオ市は、フランクリンを苦しめることになった記憶に対する学説が生まれたウイーンからは何千マイルも離れており、その学説の変わり目となった年からも何十年も離れています。
フロイト自身は、人々を殺人罪で起訴するためではなく、隠された近親相姦的思考が与える影響を明らかにするために、抑圧という概念を利用しました。
つまり、フロイトの理論は以下のようなものです:
子供が両親に持つ性的な感情は、その子供が成長した後の愛への接し方を決定づける
この肉欲的な欲望は嫌悪感により意識の外へ追いやられるので、彼自身はこのパターン化され不愉快な憧れ(longing)の感情について、ずっと気が付かないままである
これが無意識下における感情の記憶についての、フロイトの説明です。インパクトのある説ですが、少なくとも2つの誤りが、その中心にある記憶のモデルの価値を損なっています。
心臓の筋肉繊維は物ですが、それが生み出す心臓の鼓動は生理的な「イベント」であり、それは生命を維持し、質量を持たず、空間を占めない、振動の繰り返しです。
記憶もまた身体的プロセスであり、それも物理的な実体物により生み出されますが、魂と同じくらい重要であるというわけではありません。
心拍が一回起こった後に一分間停止したとすれば、それは心拍がどこかへ行ってしまったわけでも、それを取りもどさなければならないわけでもありません。記憶は神経系による鼓動ですが、ただしそれを再び想起させずに何十年かが経てば消えてしまうという性質を持ちます。
それ(記憶)は物ではありません。つまり、それがどこかに行ってしまったというわけではありません。
そして第二に、現代の科学は、記憶の不変性に関するフロイトの信念を消し去りました。記憶は変わりやすくて気まぐれであるばかりではなく、次の章で見るように、時間とともに変化「せざるをえない」のです。それは脳の記憶メカニズムの性質によります。 フロイトの記憶モデルはニセの基礎石の上に築かれたため、今世紀の私達はそれがぐらついて倒れるところを見ることになりました。抑圧された記憶、という教義は、評判を失いました。多くの裁判所では、「回復した」記憶をもはや証拠として認めることはありません。 しかし、「無意識下の感情的な記憶」は、疑いなく存在します。記憶の中の風景には影がかかっていますが、その影の暗さは、邪悪な抑圧という恐ろしいものではありません。
月が太陽のすぐ前を通過する間、地球の昼間の表面には「本影(umbral、食のときに光が遮られてできる円形)」と呼ばれる円形部分ができます。月と太陽とはいったん別々の天球に分かれ、その後、地上には2回めの夜明けが訪れます。
フロイトが見落としていたのは、記憶とは、心が食(訳注:天文の)に入ったときに光が投げかけられてできる、「半影(penumbral shadows, 食のときに本影の周りにある少し明るい部分)」だということです。
彼は、いつの日にか科学が、記憶を、2つの異なる天体である太陽と月とに分けるだろうことを予想することはできませんでした。
なぜなら、太陽と月には見かけ上の一体性があり、それがミスリードとなっていたからです。(訳注:地動説による天動説の否定を暗示していると思われる)。
脳の記憶メカニズムの1つは
意識を事実と個別性という投光器で照らす一方で、
もう一つのより古く、深く、静かなもの(訳注:意識の対となるもの、意識下のもの、本書では感情と同義と思われる)については、それ自身がもつ青白い光で生の全体を照らし出します。
不可能な日記
あなたの結婚式で酔っ払ったのは誰ですか? あなたの最初の恋人の目の色はなんでしたか? 映画「痩せた男」でマーナ・ロイの相手役を演じた俳優は誰ですか?
もしこれらの質問に答えられるとすれば、それは記憶の、明らかに目に見える機能によるものです。 明示的な記憶、つまり脳の双子の記憶装置のうち、より公開されている方は、出来事についての記憶を符号化します。それは、自伝的な数々の出来事や、個別の事実についての記憶です。
あなたが過去に知ったことや経験したことにアクセスする必要があるとき、あなたの精神はふるいにかけられ、意識という解決策を提示します。
明示的な記憶は迅速かつ大容量ですが、精度の感じ取り方には誤謬が含まれる(訳注:慣れによる感覚麻痺などのこと)ので、頻繁にエラーを返します。
最新の脳スキャン技術により、知覚が想像と同じ脳領域を活性化することがわかっきています。おそらくこの理由により、脳は記憶された経験と内部のファンタジーとを、厳密には区別することができません。
オスカー・ワイルドの「正直さが重要」という演劇の中で、プリズムという女性はこう言います:
「セシリー、記憶っていうのは、人が生まれたときから持っている日記なの?」
セシリーは答えます
「ええそうよ、でもそれには、今まで起こったことがないことも、これからも起こることがないことも、書いてあるのよ」
明示的なメモリを作成するハードウェアは、脳の一時領域内にあります。最も重要な構成要素は海馬です。これは、正中線の近くから始まり、側頭葉の極に向かって曲がった形をしています。
脳の奥深くに位置する海馬は、外部からの衝撃には強そうに見えます。しかしそうではありません-事故、脳卒中、ウイルス、および脳神経外科という熱狂的な研究により、海馬を減らしてしまう可能性がありますし、実際に減らしています。海馬を失った患者は、海馬が記憶力の元であるということの証人となります。なぜなら、それなしでは明確な記憶を作成できないからです。これらの患者は、メロドラマによく出てくる、記憶喪失(健忘症)に苦しんでいます。昼間のメロドラマでは、登場人物がロマンティックな過去の出来事を思い出せないということに焦点を当てていますが、海馬のない患者にとっての本当の問題は、記録も記憶もできないことです。彼らの人生は、現在という孤島島に置き去りにされています。
たとえば、そのような患者の1人をアンダーウッド氏と呼ぶことにします:
家族が67歳の彼を病院に連れてきたのは、彼が混乱しているように見えたからでした
その後の調査で、彼はコルサコフ症候群を患っていたことが明らかになりました。彼の場合は、数十年間にわたる大量の飲酒によって、明示的な記憶システムの重要な部分が破壊されていました。
アンダーウッド氏は、脳にダメージをうけたあと、見たりやったりしたことの記憶を保持できなくなったので、いつまでも変わることのない「現在」に閉じ込められてしまいました。彼はいつも今が1985年だと思っていて、今の大統領はロナルド・レーガンだと思っていました。
彼は自分が病院にいることにいつも当惑していました。なぜなら病院側が辛抱強く病気の内容を説明しても、その内容はその数分後には彼の心から消えてしまうからです。
彼の担当の医師と看護師は彼にとって見知らぬ人であり、すべての出会いは新たな紹介を必要としました。彼はジョークを言うのが好きで、多くの場合、同じジョークを10分間に3〜4回繰り返し、同じジョークを繰り返すことさえなかったら、もっと笑いが取れていたはずだと喜びながら話しました。彼は病棟を歩き回り、誰かが自分のリストバンドを見て彼が誰で、どこから来たのか(彼自身も決して知らないことですが)を見つけるのに苦労するまで、病院を歩き回りました。
アンダーウッド氏は壊滅的な神経障害に苦しみ、「現在」という窓のない刑務所に閉じ込められています。覚醒している時間は、毎秒ごとに飛んで逃げていってしまいます(これは誰だ?私は車の鍵をどこに置いたのか?昨夜妻と喧嘩をしたのは何についてだったのか?)。私達はそのように自問自答することで、自分が何をしてきたのか、どこにいるのか、世界で何が起こっているのか、そしてその理由をなぜか、ということを知ることができます。情報は、ふるいを通る砂のようにアンダーウッド氏を通り抜けました。彼は紙のように薄い存在であり、関連する世界に彼を根付かせることのできる知識から遠ざかり、時間の表面をとおくから眺めることしかできませんでした
アンダーウッド氏の飲酒が彼の明示的な記憶装置を破壊したとすれば、彼はどのように物事を思い出すことができたのでしょうか?レーガンが1985年に大統領であったこと、妻の名前、または彼自身の名前を、彼はどのように覚えているのでしょうか?
海馬は、明確な(意識的な)憶を作成する上では重要な役割を果たしますが、記憶自体は他の場所にあります。アンダーウッド氏のような患者は、脳にダメージを受けるまで(もしくはそれより2,3日前まで)の記憶を思い出すことができますが、それ以降のことを何も思い出すことができません。
そのように長い間考えられていました。しかし調査により、アンダーウッド氏のような患者は、明確な記憶がなくても、学習する能力は生き残っていることがわかりました。この発見は、月の裏側にある都市を見つけるようなものでした。脳内に隠された第ニの記憶システムを探すゲームが始まりました。
隠された働き
アンダーウッド氏のような患者は、編み紐を教えられました(訳注:病院でのリハビリや余興として、細い紐を編んで太い紐を作ること)。それは彼にとって、明確な記憶が途切れてしまう前には知らなかったスキルでした。彼がそれを習得した後、実験者は彼に、編み紐の編み方を知っているかどうか尋ねました。彼は、彼の観点からの真実の声明である「いいえ」と答えた。とはいえ、彼は編み紐のヒモを3本つかむと、ためらうことなくそれらを織り上げました。 人が意識せずに記憶を作り上げるとした場合、私たちはそれをどうやって知ることができるでしょうか?それは、本人の言っていることはどうあれ、その人の行動を観察し、経験から変化した行動、つなわち彼が「学ばざるを得なかった」行動を推測することによってのみ、可能です。 編み紐の編み方を記録した神経細胞は、彼がすでに忘れてしまっている、「編み方を教えてもらった」という記憶とは、別の部分に保管されています。もし私達が探求の入り口で私達自身の像をチェックしようとするのであれば、脳の隠された学習システムという深淵に入っていくことができるでしょう。 「明示的な記憶」は、意識がそれ自身について熟考することが可能ですが、「暗黙的な記憶」はそうではありません。これが、暗黙的な記憶(訳注:意識されない記憶)が私達の意識から逃げてしまう理由です。プロの編み紐職人になろうとする人が持つ、学ぶことと気づくこととの間にある大きなギャップは、通常の健康な人の脳にも存在するものです。わたしたちは皆、語り尽くすことも、説明し尽くすことも、把握し尽くすこともできない、驚くべき複雜な知識を習得します。 以下の研究を見てください:
研究者たち Barbara Knowlton、Jennifer Mangels、Larry Squireは、被験者に対し、単純なコンピューターシミュレーターの中で、天気を予測することをお願いしました。各実験では、次のページに示されている図のうち1つ、2つ、または3つの図が、合図とともに手がかりとしてコンピューター画面に表示されました。
被験者の仕事は、その図示されたヒントが、シミュレーターの中の雨や晴れの状態と関連づいているかどうかを予測することでした。被験者はそれぞれ、表示された手がかりを見て、答えをキーボードで入力しました。するとコンピュータは、彼の予測があたったかどうかを答えます。そして被験者は再び次の予測を行います。
研究者がこの装置を作成したときの方針は、以下のとおりです。
表示された手がかりは見た目ほど役に立たない
しかし雨や晴れという最終結果に論理的には関連するようにする
しかし、手がかりと天候の関係は、最も賢い人でさえ推測できないような、複雑な推論を駆使しなければ解けない関係になっていました。このように、解くには難しすぎるほどのタスクを設定した理由は、大脳新皮質による推論という影響を中立化させ、いわば片方の脳を背中に縛り付けた状態で被験者をタスクに向き合わせたかったからです。
認知機能を困惑させるという意図は成功しました:
被験者のうち、表示された手がかり図と天気との関係に気がついた人はいませんでした。
それにも関わらず、被験者は天気の予測能力を着実に向上させました。
予測実験をわずか50回行った時点での、平均的な被験者の正答率は、70%でした。
被験者は自分が何をしていたのか、なぜそれが機能したのかを理解していませんでしたが、それでも予測「できました」。彼らは徐々に状況を感じ取る能力を開発していき、彼らの論理的な脳には解くことができない複雑な問題の本質を、直感的に把握しました。
https://gyazo.com/7e1b374f08275fe2a4e16904bc1bbd40
天気を予測しようとする被験者に与えられる手がかり。(Knowlton 他、1996から引用)
「実際の」天気を予測するにはさまざまな手がかりが必要ですが、現代の気象予報学が出現するより以前には、上記の探求と同じプロセスに依存していました。
朝の鮮明で真っ青な空、風の方向、空気の涼しさ、すぐに消えてなくなる形容し難い匂い(そして何人かの人にとってはおそらく、膝のリューマチの痛み)、等によって、午後の雨や夕暮時の降雪を予見することができます。ある人は、雲ひとつない澄んだ空を見ながら、「今日は雨がふる『気がする』」と言ったりします。
アマチュア予測者(私たちのほとんどがそうであるように)にとって、この内側の、簡単に無視される感覚は、利用可能な最良のガイドかもしれません。
ある研究では、上記の天気予報と同じような実験を行った結論として以下を発見しました
問題解決を意識的に試みることが
直感の芽が出ることを妨げ、
実際に被験者の成績を下げることがある
ということ
別の実験では、手がかりの重要性を事前に注意深く説明することが、被験者がタスクをどれだけ理解できるかについてを改善するものの、そのタスクを実際にうまく行うことができるか否かについては改善することがないということが実証されました。
Knowlton、Squire、およびSeth Ramusは、新しい言語を作成して、暗黙記憶の限界をテストしました。この新しい言語とは、複雜で恣意的なステップにより作り出した「単語」により構成した、完全にオリジナルで役に立たない言語です。 この文法ルールでは、英単語のT, V, J , および X を組み合わせて無数の単語を作成しますが、全ての組み合わせが有効という訳ではありません(たとえば XXVXJは有効ですがTVXJは無効、というように)。
研究者は、複雑なルールの内容は公開しませんでした。
単に正当な50個の単語のリストを被験者に提示しました。
被験者は、今まで見たこともない単語の候補郡を見せられ、研究者はその単語が正しい単語か否かを質問します。
実験結果:
被験者達は、正しい単語とそうでない単語とを識別することができる
被験者が出来なかったこと:
なぜそのような判断をしたかについて、被験者自身は説明できなかった
繰り返しますが、彼らは複雑なシステムの内部の仕組みを、自分自身では描き出せない方法で習得していました。彼らは自分の直感を使っているとしか言えませんでした。 https://gyazo.com/3a80a7f08be9c16d559e6a086b755aff
人工文法研究における「単語」生成スキーム。(Knowlton 他、1992から引用)
https://gyazo.com/3612490b75ed24e761c53109941728e8
人工文法における文法的および非文法的な「単語」。(Knowlton 他、1992から引用)
これらの複雑な判断を、その基礎を理解することなしにはどうやって行うことができたのでしょうか?脳の一部は、理解に関与する神経系を関与させることなく、人工文法の精巧なパターンを理解する必要があります。その脳のメカニズムは暗黙の記憶でなければなりません。海馬に障害のある(そして明確な記憶がない)患者は、人工文法と天気予報タスクについて、正常な被験者と同様にタスクを遂行可能だったからです。
脳の二重記憶システムは、完全にお互いを補い合う性質を持ちます:
暗黙記憶を司る脳の部位が損傷した場合、出来事、事実、リストについての通常の学習能力は残り続けますが、直感的な知識を漸進的に習得するという静かな、人が依存している能力を失ってしまいます 直感についての科学的研究はまだ始まったばかりです。研究者はすでにその力を調査しています。 珍しくエレガンスな1997年の研究では、アントワーヌ・ベシャラ、ハンナ、アントニオ・ダマシオ、ダニエル・トラネルが、以下の実験を行いました。
人々にゲームの所持金として2,000ドルを与えました
被験者は4つの山からからカードを選び、当選すれば賞金がもらえました
被験者はカードの組み合わせが操作されていることを知らされていない
カードを裏返すと、そのカードがあたりか外れかにより
2つの山では100ドル、
他の2つの山では50ドル
の賞金がもらえました
人生と同じように、高額の山のカードには罰金の高いカードも含まれていました。
低額の山のカードには少ない罰金が課せられました。
(訳注: 著者がなぜこのような文学的表現に酔っているのか理解に苦しむが、要は100ドルの山はペナルティも大きく、50ドルの山はペナルティも小さいということ)
全体としては、$ 50の山からカードをプレイすることが勝利戦略でしたが、被験者はゲーム開始時点では時点では何も知りませんでした。
いくつかの大きな損失を被った後、人々は危険なデッキからカードを引くことを検討するにつれて、発汗のわずかな上昇を示し始めました。身体の緊張は差し迫った予感の唯一の指標でした。
20ターン目まで、全体のカードの半分(訳注:高額賞金の山のこと)が彼らに対して逃れられない損失となることを口頭で疑う人はいませんでした。
約50ターン後に、人々は100ドルの山を避けるべきだと疑い始めましたが、そうする理由を説明することはできませんでした。
80枚のカードをプレイした後、被験者の3分の2がどの山を選択するのか、そしてその理由を把握していました。
残りの3分の1はこの概念を持つという段階には達しませんでしたが、彼らは鋭い直感を使って勝つことができました。
私たちが世界を移動するとき、成功は理解から来ると思いがちです。合理性という狭いビームの明るさは、この推測をほとんど避けられないものにします。科学がすべてを解明すると期待されていた時代にヘーゲルは、「理性こそが宇宙を構成するものだ」と大声で叫びました。
しかし、これらの記憶の研究には、非常に広い範囲に関係のある、直感的な真実が含まれます。
それらの研究は、私たちが見たことのない2番目の太陽の輝きにより私たちの生活を照らし出し、明らかにします。
ある経験の繰り返しに直面したとき、脳は無意識にそれらの根底にある規則を抽出します。
わたしたちはそのような経験を、みぞおち(訳注:solar plexus, みぞおち部分が放射状の神経網を持っているために太陽神経叢とも呼ばれ、ここでは2番めの太陽という比喩の掛詞になっている)へ受ける圧力として感じ取りますが、それを記述することはできません。そのような知識はゆったりとした落ち着きと、動じなさを持ち、頑なに表現されることを拒み、言葉に翻訳されえない運命と共に成長します。
アリストテレスは、以下の2つを区別しました:
あることについて、それが「何か」ということを知ること
あることについて、それがそうであるのは「なぜか」ということを知ること
理由を探し求めたいというアテネ人の不安からくる欲望は、科学的探求という不安定ではあるものの最初のステップになりました。
彼らの探求はその後、神話として生まれ変わりました(metomorphosed)が、彼らの積み重ねられた知識は生き残りました:
本当の知識、真の知識とは、それがなぜかを知ることである
中世のscientia (訳注:ラテン語で「知識」を意味する)とは以下の定義を持ちました::
それぞれの原因ごとの知識を持つこと (cognitio per causas) 現代の科学は、ある事象Xが理由なくただそうであることを知ることの有用性、さらには優位性を確認しています。何かを広範に把握することの真の役割は、認知というケーキを粉砂糖で飾り付けることです。パスカルが指摘したように、理性とは、真実を知らない人がそれを発見するための、ゆっくり曲がりくねった道筋です。 暗黙記憶の働きにより、学習の過程は目立たない形で、私たちの生全体に行き届いています。 たとえば音声言語は、ネイティブスピーカーがそれを知っている通り、説明することのできないやっかいな音韻規則の羅列に基づいています。ほとんどの人(訳注:英語のネイティブの殆どの人)は、もし文章が平易な英語で綴られていれば、そこにやっかいなルールが潜んでいるということさえ認識できません。
スティーブン・ピンカーが「言語の本能(The Language Instinct)」で観察しているように、 英語のネイティブは、thole、plast、flitch等は英語の単語ではないが英語になることはでき、その一方、 vlas、ptak、nyipは英語にはなりえない、ということを即座に判断できます。私たちのほとんどは、この表面的には気まぐれな区別がわたしたちの意識の中で優勢な位置を占める理由を理解していません。「なぜ nyip なのか?」という独りよがりの言葉は、その避けがたい違和感により即座に押さえつけられます。 「私の兄弟は死ぬことができます」
という表現は、人の心という耳にとっては違和感があるように聞こえます。
しかしそれと同様の表現である
「私のボールはバウンドさせることができます」
および
「私の馬はレースさせることができます」
は許容されます。
その理由を説明できるのはほんの一握りの文法学者だけです。暗黙の知識により、言語構造は自動的に使用できるようになりますが、それが表立つことはありません。
子どもたちは、教えられることなく話せるようになります。スポンジが水を吸収するように、子どもたちは言葉の規則を吸収します。すべての言語は複雑ですが、混沌とした言語はありません。言語の根底にある均一性は、経験の海から繰り返しパターンを抜き取る準備ができている神経システムに現れます。
わたしたちが親しんでいる意識という分析的なエンジンの背後には、静かな影の力が光りながら回っており、それは複雑な人生を自動的な行動に変えます。
後から理由づけされるか、
そもそも理由付けがされない、ある種の予感です。
愛の選択を導くのはこの暗いシステムです。
私の中を見て、
生えかかった翼を持った私を。
その翼の一方はすすで汚れ、
もう一方は炎で燃やされ、その青白い炎は翼を縛り付ける
私は片方の翼、白いほうの翼だけで、飛んでいけると思う?
影のない光で愛の国に入ろうと思うのですか。後で見るように、それができる可能性はありません。
記憶という子どもの庭
子供が持つ2つの記憶装置はさまざまな成熟速度を持ちます。
明示的な記憶を生成する構造は誕生時には未熟であり、完全に機能するようになるには何年もの神経発達が必要です。 暗黙のメモリはウォームアップを必要としません。それは赤ちゃんが生まれる前に動作します。
彼の後の人生では、暗黙のシステムはその若々しい堅牢性を保持しつづけ、明示的なメモリシステムは数十年が進むにつれて徐々に退化します。
これらの個別の成熟曲線は、空間内の斜めの線のように、それぞれ分岐した軌道を持ちます。
人は30代に到達すれば、身体が衰えつつあることに気が付きます。
年が経つにつれて人は、知人の名前、車のキーをどこに置いたか、ときには車自体がどこにあったかを思い出すために努力を要しなければならなくなるということを認識します。
しかし、彼の直観は生き残り続け、蓄積していきます。
脳の記憶野は次の格言を裏付けます:
人は自転車に乗る方法を決して忘れません。
人々は、感情に基づいた記憶は忘れませんが、事実に基づいた記憶はそうではありません。意識的な記憶は、人生の始まりと終わりとの「両方」においてうまく機能しないため、人は2歳になるまでは出来事の記憶を保持できません。 フロイトは1897年1月24日に同僚のウィルヘルム・フライスに宛てた手紙で、ある患者が月齢11か月であったときの記憶を取り戻したと宣言しました。それはその患者が「その時、二人の大人の間でやり取りされた会話をもう一度聞くことができた! それは蓄音器のようだった」と書いている。
フロイトの業績は輝かしいものではありますがが、彼は患者が、「モーツァルトが持っていた音楽的な早熟さをしのぐ記憶についての早熟性を持っていた」と主張しました。 幼児が自伝的な出来事を記憶していないとすれば、彼らが学んでいるものは何でしょうか?赤ちゃんの運動制御能力は小さく、その能力をすぐに発揮することはできませんが、いくつかの巧妙な実験により、幼児は恐るべき探究家であることが確認されました。
乳児が新しいものに対して反応するときの生理反応を観察することにより、研究者はどのイベントがあくびをしたときの自律神経のような働きをするのか、知ることができます。つまり、新生児にとって何が新しいことで、何がすでに知っていることなのかを識別できます。
これらの方法により、赤ちゃんは生まれてから36時間以内に母親の声と顔を記憶する、ということが証明されています。
数日以内に、幼児は母親の声だけでなく、見知らぬ人が話しかけたときでも母国語を認識し、それを好みます。
この知識は分娩後の相互作用、つまり相当に素早く行なわれる学習に由来すると考えるかもしれません。しかし、新生児は父親の声を認識せず、新生児の好みは出生「前」の学習を反映していることが示されています。子宮内での聴覚系の急速な発達と子宮という水槽による優れた音響系は、音響で胎児を取り囲んでいます。
母親の発声を9か月間浴びた赤ちゃんの脳は、母親の声のトーンだけでなく、母親の言語パターンを解読して保存し始めます。生まれた赤ちゃんは、そのときには親しみがあるものとなっている母の声と母国語の音に向きを合わせ、他のなによりもそれらを好みます。そうすることで、彼は愛着と記憶の両方の初期の痕跡を示します。 話し言葉の習得と同様に、感情的学習は暗黙的に行われます。子宮内という開始時点における助けを借りても、子供は完全な文章を理解するのに何ヶ月もかかり、それらを作り出すのに少し長くかかります。表情、声の調子、タッチは、哺乳類の感情的なメッセージを伝えます。第3章で見たように、赤ちゃんは生まれつき、その信号伝達システムを流暢に使いこなせます。暗黙の記憶は、母親と子供が辺縁系のつながりを介して結びついている人生の最初の数年での唯一の学習システムです。 明示的なシステムの外で感情的な記憶を記録できますか?アントニオ・ダマシオは、できることを示しました。ダマシオの患者であるボズウェルはアンダーウッド氏のようなものであり、明確な記憶を持ちませんでした。しかし、ダマシオとダニエル・トラネルは、ボズウェルの結合行動が拡散的にランダムではないことを観察しました。
彼は特定の看護師に特に執着しているようでした。愛情のこもった選択性に興味をそそられたトラネルとダマシオは、感情的な記憶を形成して保存するボズウェルの能力をテストする実験を計画しました。
研究者は3つのタイプの協力者に対して、ボズウェルに対して以下の行動をとってほしいと指示しました。
「いい人(グッドガイ)」のタイプに振り分けられた協力者は、ボズウェルの機嫌をとり、彼を気にかけてほしい
「普通の人(ニュートラルガイ)」のタイプの協力者は、当たり障りがないように接してほしい
「悪い人(バッドガイ)」はまったく不快な存在として振る舞ってほしい
ボズウェルはその後、彼らのうち誰とも会ったことがないということを自信を持って断言しました。そのような知識は、彼の長期記憶としては残らなかったのです。
しかし、ガムかタバコをもらうとすれば誰からもらうかという選択を与えられたとき、「いい人」が偶然以上に多く選ばれました。
出来事の記憶がなく、ある人の名前を覚えることもできないのに、ボズウェルは感情的な印象を保持し続けたのです。
詩人のチャールズボードレールはかつて、「もし悪魔が最高のトリックを持つとすれば、それは世界に悪魔自身が存在しないように見せることだ」と書いた。暗黙の記憶も同じことをしました。
感情的な記憶について尋ねられれば人は、不連続で懐かしい風景とともに、過去の記憶について思い出すでしょう: 彼が5歳のときに車に惹かれてしまった懐いていた犬、
9歳のときのベーカーズフィールドからボストンへの引っ越し、
高校のダンスパーティーで、あんなに憧れていた黒髪のあの女の子を誘ったけど断られて傷ついたこと
「私達に最も影響を与えるものは、記憶の中でそびえ立つトラウマだ」という仮定よりも自然な仮定はあるでしょうか。それらのいくつかは痕跡を残しますが、ゆっくりとして隠されている暗黙のシステムこそが、感情的な学習を記録する真の書記官です。 関係性というある特殊なスタイルに包まれた子供は、出会った実例の中からシンプルな信条を導き出し、その特別な複雑性と独特なリズムを学びます。
彼はそうすることにより、意識という網の目を永遠にかいくぐる事ができる愛という直感的な知恵に到達します。 彼の心が行き先を知らないとすれば、それは抑圧によるものではなく、脳の二重構造に起因します。 愛という本ががっかりするほど判読しづらいのは、ソフトウェアプログラムのメーカーが自社のプログラムの問題について言うときと同様、バグではなくそれが持つ機能の1つなのです。
脳に関する注意事項を凝縮して要約すれば、その容赦のない強さと破滅性ということになります。 暗示的記憶が(訳注:数々の事象から)一般原則を引き出してしまう理由は、マロリーがエベレストに挑戦しようと思った理由と同じで、「なぜならそれがそこにあったから」というものです。 人生の初期においてある一貫した事象群と出会ってしまうことは、子供の心に誤った一般性を植え付けてしまうことがあります。
このような精神の仕組みにより認知は濃縮され、そのような自分の考えそれ自体を評価することができなくなります: つまり、外部の大きな世界が、家族内の感情的な小宇宙から引き出される枠組と調和しているかどうかを検知することはできません。
ちょうど、英語の文法が唇から生み出される自動的な会話から現れるものであるように、感情的な関係性の構造的なパターンは、個々の私たちから生み出されるものです
私達は愛のダンスを踊る中で思いも寄らない動きをする際に、自分でも意識しない知識を披露することになります。 もし子供が適切な親を持てば、その子は正しい原則ーつまり愛とは守ることであり、思いやることであり、忠誠を誓うことであり、犠牲であること、を学ぶでしょう。
その子はそうするように言われたからそれを知ったのではなく、その子の脳が込み入って混乱した現実を自動的に絞り込み、数少ない標準的なプロトタイプにしたからなのです。 もしその子が感情的に不健康な親を持てば、その子は無意識的に、親たちの問題のある関係性を正確に記憶するでしょう: そのような愛は窒息させるものであり、その怒りは恐ろしいものであり、その依存関係は恥ずべきものであり、またそれ以外に無数の損害を与えるバリエーションがあるでしょう。 トルストイの次の言葉は正しかったのです:
「幸せな家族は(健康な体がそうであるように)みな似たように穏やかであるが、不幸せな家族はその病理の複雑性を反映しているという意味でみな違っている」
たとえば、正当な理由で不幸な独身状態を続けている若い男性を例として考えてみましょう。彼が覚えている限り、彼のロマンスはいつも同じ道をたどりました。
最初に、愛という衝撃が、その目まぐるしい突進と背中にともる甘い火として訪れます。続く数週間は、狂ったような相互献身が続きます。
それから最初の警告アラームが鳴り出します:
パートナーからの批判が少しづつ漏れ出します
彼らの関係が落ち着くと、小さな水流は急流になり、急流は滝になります。
彼は怠け者、彼は物事を考えない人、 彼のレストランの好みは陳腐で、彼の家の片付け方はどうしようもないほどひどい、などです
彼は、それに我慢できなくなったとき、関係を断ち切ります。
喜ぶべき静けさとと安堵が天から降りてきます。その後数週間から数ヶ月に渡るにつれて、彼の見つけた安らぎは孤独へとスライドします。
彼がデートする次の女性は、短い時間が経てば、彼の元を去った前回の彼女ののドッペルゲンガー(分身)であることがわかります。女性なしでは彼の人生は空っぽです。彼女と一緒では、彼の人生は不幸なものです。
これらの絶え間ない繰り返しは、初期のデュエット(二人の合唱)で出した声が現代になっても残っているエコーであり、それは暗黙的な記憶が生み出す忘れられないメロディーです。 彼の彼女は彼の頭の中に、彼の母親の録音された声を描きだします。
母親は、知的で創造的ではありましたが、気が短く外交的で人を非難しがちな女性でした。
彼の若い脳は、「その」方程式を吸収しました。
つまり、人が人を愛するときにはいつでもそのような原型・プロトタイプを前提におきます。
次の章で見ることになる理由により、彼はそれ以外には何も見出すことはないでしょう。彼一人だけでは、何か他に見つけられるものがあるということにさえ気が付かないでしょう。
常識でさえ、彼を誤りに導く役割を果たしています。理性的な多くの人がそうするように、彼は子供時代を軸とした分析により問題を解決できるのではと思うかもしれません。このような単純な想定は、患者と精神療法士の両方にとっても魅力的なものです。
非常に簡単なのは
非常に難しいのは
多くの場合は自然な方法により現れる微小な影響の積み重ねの中で、腹の底から腑に落ちるような納得をすること
です。
心理セラピストは現在逃亡中のムネモシュネ(訳注:ギリシャ神話上の記憶の女神。フロイトの暗喩か)を必死で追いかけているため、患者が自己認識している過去の出来事を、まるでカビの生えた台所の戸棚でなにか見つけたかのように「発見」し、それを日の光の下に持ってくれば彼を救出できると想定しているかもしれません。 精神療法を、すでに明らかになっている過去を解き明かす宝探しであるかのように考えることは、誤りです。
ある人間関係のスタイルにさらされるということは、そのスタイルの文法と表記規則とが、それにさらされた人に刷り込まれるということです。 そのような刷り込まれた認知形式の痕跡は、人の認知形式を観察すれば、今起きているあらゆる事象に見出すことができます: 例えば、夢、仕事、人間関係、夫が妻・子供・飼い犬を愛するやり方、などの「現在の」形に、です
自伝的な記憶は有用です。
なぜなら、そこに投げかけられるパターン(記述形式)もまた、飾られることなくプレーンなものだからです。しかし明示的記憶は神聖なものではありません。患者は毎日、セラピストが探し求めるような記憶の宝石の中を行進しています:
それらの宝石は、患者の人生という織物の中に、密接に糸で織り込まれています。患者は、自分の顔や指紋からは逃げられないということ以上に、過去の記憶の痕跡から逃げることができません。正しい場所から見る人には、全てが見えます。
人は問題解決の手段として理解を頼りにしているので、理解するということが感情の変化には何の役にも経たないことを知ると、当然困惑します。 抽象化という力に溢れた大脳新皮質にとっては、理解が全ての差異を生みだすように見えますが、 物事を理解するということそれ自体が発生する前から存在し、進化してきた神経システムにとっては、理解はそれほど重要なものではありません。 大脳辺縁系と爬虫類脳という頑丈な「非・理解システム」の前では、理性はたくさんのえんどう豆がサヤから飛び出るように、跳ね返されます。
執拗で暗黙的な感情という働き、その容赦ない非合理な力は、理論が助けとなることを妨げます。 これは例えばセルフヘルプ本(訳注:自助の本。例えば心理的なバリアなどを内的な洞察により乗り越えることを目的とした本)が実際には自分を助けることが無いということと同様です。
数も種類も膨大な自助ツール(訳注:self-help paraphernalia, 道具一式や麻薬吸引道具セットの意。ツールそれ自体に中毒性があるという著者の含み)が存在することが、感情の貪欲さとそれを満足させることの難しさを証明しています。
現実の飛行
暗黙の記憶は、私たちの世界の窓をゆがめます。これは、そのような働きをする多くの精神的メカニズムの1つです。脳は裸の現実が意識に侵入することを決して許しません。外部からやってくる全ての知覚は、複雑でそのままでは受け入れることができない世界の荒いバリを紙やすりで削るというプロセスを通過します。 試しに、片方の目を閉じて、開いている方の目の端の方をやさしく押してみてください。すると世界は沈み込んだり傾いたりするでしょう。それはあたかも、あなたの指が数ミリ(眼球を)動かしたのではなく、神の手が地球を揺らしたかのようにです。脳は眼球の位置情報を検知することはしませんが、指示により動いた眼球の動きは追跡します。眼球を動かすという指示がなければ、脳は何も起こらなかったと想定します。ある状況ではこの正確な知覚能力が命を救います。目を手動で動かしてみると、そのことにより網膜にあたっていた光が動きます。脳は目が動くことはないことを仮定しているので、世界が動いたと結論づけます。全ての経験は、このような目に見えない、時折疑わしい推論を行うという層を通過してやってきます。
しかし、オズの魔法使いのように、脳はカーテンの後ろの男に注意を払わないように仕向けます。網膜は、視野の中央のプラスマイナス30度でのみ、色を受け入れます。しかし実際の視覚は、全方向に対して色彩を持ちます。多くの目に見える色の相は推測・推定されたものであり、見るという喜びのために着色されたものです。
「世界は『見えて』いるその状態として『存在して』いる」という、神経の仕組みに促された仮定、いわゆる「ナイーブなやりかたでとらえた現実」は、私達のほとんどが無意識のうちに承諾させられているものです。ウンベルト・エーコは、人生で出会う確実なもののうち最も確実なものとして以下を述べています「全てのものは、私達の前に現れるときに現れる。それ以外の現れ方で現れることは不可能である」
私達の内部にあるリアリティーは、他に比べることがないほどの説得力を持った、モックアップ(訳注:実物大の模型)です。人を形作る神経細胞の絡まりとは、結局のところ、現実と経験との区別を生み出す神経細胞と同じものです。もちろん、故障は起こり得るでしょう。
もし仮想世界が現実をほんの少しだけ誤って伝えている場合、それを幻想と呼びます。それらの間の不一致があまりに大きくなると、それを幻覚と呼びます。 精神病とは、個人の感じる現実感覚と、事実という清潔で硬い刃先との間との不一致が、大規模かつ壊滅的になった状態をいいます。 消化器官の感覚さえ、脳にそのレプリカを持っているため、ある女性のように、脳卒中を起こした後に、飲み込んだ食物が喉を伝わって左腕内の存在しないくぼみに落ち込んだ感覚を経験するような奇妙な病気が引き起こされることもあります。
大脳辺縁系もまた世界をモデルとして捉えているため、神経細胞が心に亡霊を作り出し、感情的な経験として編成することがあります。 したがって、現実とは、日々の生活が示唆するよりも個人的なものです。異なる人が、同じ感情の領域に住むことはありません。
多くの人々はそれぞれ個別で唯一無二の世界に住んでいるので、朝目を開いたときに見えるものは、他の人類にとっては計り知れないものかもしれません。
一人の女性が惹きつけられるような男性を見たとき、
その女性は自分を所有してくれるような男性、自分の創造性を鎮めてくれるような男性を彼に見ているいるかもしれません。
また別の人は、母親を求めて泣き叫ぶ孤独な魂を彼の中に見るかもしれません
また第三の人は、彼を魅惑して、彼のようなプレイボーイを彼が望んでいる誤った女性像から引き離さなければならないと感じるかもしれません
彼女たちはみな自分が何を見ているかを知っており、目の前にいる男性の存在については疑っていません。人々は自分の感覚を信頼しているため、それぞれがそれぞれの宗派としての熱意を持ち、彼女の内部にある感覚の確からしさを信じています。
自分の主観性の広がりを目に入れながら、それでも目の前にある全てはヒンドゥー教のマーヤーmaya ーすなわち神の名にふさわしいほどの精巧さを持った夢・空想ー であることを知っている人はまれです。 最高裁判所判事のロバート・ジャクソンはかつて、法律的な観点から次のように自分自身への反対意見を述べました。
「これまで証言されていなかった証言が今や証言されたことにより、今となってはその事実ははじめから正しかったことが明らかであったように私には見える(“The matter does not appear to appear to me now as it appears to have appeared to me then.”)」(訳注:「そのように見える」と「証言される」という2つのappear が混在している法律文書の悪例をユーモラスに取り上げている)