積読としてのウィッシュリストと、ギフトの可能性
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2021年、Amazonのウィッシュリストを作った。きっかけはニュートンの「科学名著100選特集」を読んだところ、ニュートンの紹介がうますぎて、生きてるうちに全部読みてぇ~と思って、メモする代わりにAmazonのウィッシュリストを使ったこと。ほぼ同じぐらいの時期に、誕生日を迎えた友人にウィッシュリスト経由でプレゼントを送ったところ、お返ししたいのでウィッシュリストくれと言われたのもあって、ニュートンとどっちが先なのか忘れてしまった。とにかく、それで会社のSlackのプロフィールとかに載せたところ、今まで一方的にプレゼントを送った人とかから何冊か本をいただいて、読んでいる。自分はもともと、プレゼントとかもらうの苦手で、どうせ使わなくなったり合わなくなったりそもそも邪魔なのに変に捨てられなくなる感じ、プレゼントって呪いじゃんっていうの持論がある。お菓子とか食品など、なくなるものがスマートでええやんっていう話もあるけど、オレは食べたいもの自分で買うし、味とかそんなにわからないから別にいらねんだよなって思う。自分はプレゼントでもらうもの、なにがいいかと聞かれるときは「おすすめの本とかCDとかレコードとかDVDとか」って言うようにしていて、そういうなんらかのコンテンツのソフトはずっと取っておくのに少しも抵抗がなく、自分にはあまり合わなかったとしてもくれた人とセットで思い出になって最高なのでいいなと思う。そういうプレゼントに求めるもの的なことと、積読として使えるということと、Amazonのウィッシュリストが相性がよすぎるなということに気づいて、大量の情報に触れている中で誰かが少しでも触れたものはもうバンバン手当たりしだいウィッシュリストに入れて、半分読んだ気になって満足する、そういう生活になった。 今年はギフトをたくさん送った。会社の人でウィッシュリストを公開している人がいたらほとんど手当たり次第送ったし、Twitterの知り合いみたいな人にも送った。なんか良い。ギフトはいいだろう。コロナ禍で外出も減り、飲んだり移動するのが減って、仕事柄特に収入に変化はない。可処分所得の行き場を失ったので、誰か知らない人や知っている人にギフトを送るっていうのは合理的な判断だ。Amazonギフトは自分の住所がばれちゃうけど、きたければ来ればいいし。反応ない人とか全然いるけど。DJみたいな感じで、その人のウィッシュリストの中からどれを選ぶか試されてたり、勝手にセンスを発揮しようとしたりして、しょーもないんだけどまあ、それも面白なのだ。ギフト、来年以降もっとウェーブくる予感がする。いくら効率的な機械・システムが発明されても人が働く時間は減らないし。過剰にものや価値が生み出されてる。政治は常にお金持ちのための政治なので。人になにかプレゼントする、自分からはじまるgive & give & take 精神みたいなものをボトムアップ的に世間に広めていったらいいと思う、生活を共にする共同体、団地とか自治会の回覧板まわしあう人たちの間で繰り広げられているようなことをインターネットまで広げていったらいい。
ギフトの話をしてから積読の話に戻ると、ウィッシュリストを積読として利用するようになってからめちゃくちゃに積読が増えてて、Amazonのウィッシュリストってカウント機能とかあるのかわからないけど、みつからないんだけど、多分1000とかいってるんじゃないかという気がするんだけど、さすがに整理したい気持ちがわかないでもない感じになっていて、/taizooo/wishlist も積読山脈 の感じ憧れますね。いつやるのって感じだし、分類は階層構造を作る気がして自分には合っていない気がしなくもないけど、整理はしたいなという気持ちはなんとなく抱き始めている。 デフォルト・ウィッシュリスト、管理できなくなって、イライラして、まるごと捨ててしまったこともある
捨ててもそんなに困らなかった
わかる。そんなに困らなそう。
分類したのではなくて、分岐し続けた成れの果て。俺も一回分岐してみよう。
積読・ウィッシュリストの整理も読書の一部に
積読しておくだけ/ウィッシュリストにいれておくだけ じゃない整理しないと読書の一部にならない
そうなのかもしれない。本棚のどこに置くかとか、どこに積むかとか、土台として優秀なのか、ペラくて心許ないのか、どこに積んであるのか忘れてしまうのか、なんとなく覚えているのか、そういうのが積読の要素なのかもしれない。