反応しない練習
草薙龍瞬
ブッダの考え方とは、悩みがあるという〝現実〟を見すえて、その〝原因〟を理解して、解決への〝方法〟を実践しようという、最先端の医学にも似た明快な処方箋なのです。
反応せずに、まず理解する──これが、悩みを解決する秘訣です。特に「心の状態を見る」という習慣を持つことで、日頃のストレスや怒り、落ち込みや心配などの「ムダな反応」をおさえることが可能になります。
今は「歩きスマホ」が問題になっていますが、正直あれは「テキトーに反応している」だけなので、「つい反応」「つい妄想」という心のクセを強化してしまうはずです。「テキトーな反応」だけだと、ぼんやり感や虚しさが増えていくのではないでしょうか。 もしあなたが、これ以上悩みを増やしたくない、充実感を大事にしたいと願うなら、テキトーな反応、妄想を減らすことです。そのために「カラダの感覚を意識する」ことを習慣にしてください。
それではチュンダよ、このように考えて、自らを戒めよう。 荒々しい言葉を語る人もいるかもしれないが、わたしは荒々しい言葉を語らないように努力しよう。 自分の考えに囚われる人もいるかもしれないが、わたしは自分の考えに囚われないように心がけよう。 間違った理解や思考を手放せない人もいるかもしれないが、わたしは正しい理解と思考が身につくように頑張ろう。 見栄やプライドにこだわる人もいるかもしれないが、わたしは見栄やプライドから自由でいられるように精進しよう。 自分をよく見せたがる人もいるかもしれないが、わたしはありのままの自分で生きていくように努めよう。──チュンダへの諭し スッレカ経 マッジマ・ニカーヤ ブッダの考え方のポイントは、「世間にはこういう人もいるかもしれないが、わたしはこうしよう」と、他人と自分との間にきっちりと線を引いていることです。
「過去を引きずる(過去を理由に今を否定する)」というのが、それ自体、心の煩悩、邪念、雑念なのです。 人生に、あやまち、失敗はつきものです。ただ肝心なのは、そのとき「どう対応するか」なのです。 落ち込まない。凹まない。自分を責めない。振り返らない。悲観しない。 それより、今を見すえて、正しく理解して〝ここからできること〟に専念するのです。 もちろん、人に迷惑をかけたときは、事態を正しく理解して、「すみませんでした」と素直に謝りましょう。それも含めて、もう一度、新しくやり直すのです。
もし唯一「自信」を持てることがあるとすれば、それは「こう動けば、成果が出る」という見通しが立つようになったときです。それはもちろん、行動・体験の積み重ねの後、〝時間の蓄積〟の後に、初めて持つことができます。 どんな世界でも、成果を出せる見通しがつくには、「一〇年かかる」と言われます。仕事なら、二十代のうちにスキルや人脈を身につけて、三十代に入ってから責任あるポストを任されるようになります。スポーツや芸能の世界で活躍している人たちも、経歴を見れば、幼い頃からはげしい練習を積んで、一〇年あたりをすぎてようやく頭角を現してきます。どの世界にも〝時間の蓄積〟が必要なのです。
ブッダは、その名の通り〝目覚めた人〟として、当時のインドで日増しに有名になっていきました。何百人もの弟子を抱える高名なバラモンでさえ、ブッダの弟子になる者たちが出てきました。インドでは、今も昔も、カーストが絶対的な意味を持っています。ブッダのカーストは、バラモン(司祭階級)より下の〝クシャトリア〟(武士階級)でした。そのブッダに、最上位カーストのバラモンが弟子入りするというのは、当時はかなりショッキングな事件だったのです。 あるとき、ひとりのバラモンが、自分と同じ姓を持つバラモンがブッダの弟子になったことを耳にしました。プライドの高いバラモンには、これが許せませんでした。ものすごい剣幕でブッダのところに押しかけ、弟子や訪問者たちが大勢いる目の前で、言葉のかぎりを尽くして誹謗中傷を浴びせました。辺りには並ならぬ緊迫が走りました。 ところが、ブッダは、静かに、こう返したのです。「バラモンよ、あなたが自宅でふるまったごちそうを客人が食べなかったら、それは誰のものになるか?」 質問されれば、答えざるを得ません。バラモンは「それは当然、私のものになる」と答えました。「あなたは、その食事をどうなさるか?」「それは自分で食べるだろう」とバラモンは答えました。 すると、ブッダはこう言ったのです。 もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。 わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。──罵倒するバラモンとの対峙 サンユッタ・ニカーヤ
「過去を引きずる」というのは、仏教的には「記憶に反応している」状態です。ここは大切な点なので、ぜひ理解してください。 たとえば、相手と言い争ったとします。最初の「怒り」の対象は「相手」かもしれません。でもその場を離れてもなお、相手のことがアタマから離れず、ムシャクシャ、モヤモヤ、イライラしているとしたら、その原因は「相手」ではありません。自分の中の「記憶」です。 過去を思い出して、「記憶」に反応して、新しい怒りを生んでいる──それが、いつまでも怒りが消えない本当の理由です。その怒りに実は、「相手は関係がない」のです。 もし仏教を実践して、「反応しない達人」になれたら、どんなバトルを繰り広げても、トイレに入っただけで、あるいは相手の向こうにある「部屋の壁」を見るだけで、「怒りが消える」ようになるかもしれません。これは大げさなようで大げさではありません。少なくとも、帰り道では、「過去は過去」と割り切って、すっきりできるようになります。 もしイヤな記憶がよみがえったら、その記憶への「自分の反応」を見てください。相手と別れてもなお腹が立って止まらないときは、「これはただの記憶」「反応している自分がいる(相手は関係ない)」と冷静に理解して、感情を静めるように心がけましょう。
驚かれるかもしれませんが、心理学の一説には、心は一日に「七万個」もの想念を思い浮かべるのだそうです。「約一・二秒で一個の思い」です。心というのは、それくらい目まぐるしく回転しつづけているのです。これは「心は無常である」ことの一つの例です。
今の時代は、ネットやマスメディアを通じて、煩悩を刺激するさまざまな映像や情報が、いくらでも飛び込んできます。そうして心にインプットされた〝反応の記憶〟は、自分でも予期しない形で脳裏によみがえってきます。 ただ、それらは全部「妄想」です。真に受けるに値しないものだと、最初に知っておきましょう。「妄想は妄想にすぎない。何が思い浮かんでも反応しない」という覚悟が、大事なのです。
心を扱う多くの世界では、「確かめようのない」内容を真理として説きます。宗教も、オカルトも、占いも、「仏教」とひとくくりに呼ばれている思想の中にも、それはあります。 しかしブッダの思考法──おそらくかつて実在したブッダ自身の立場──は、「確かめようのないこと」は、最初から取り上げません。 その理由を、ブッダ自身が明確に述べています。 世界は永遠か、終焉があるか。有限か、無限か。霊魂は存在するか、しないか。死後の世界があるか、ないか。私はこれらのことを、確かなものとして説かない。 なぜならそれは、心の清浄・安らぎという目的にかなわず、欲望ゆえの苦痛を越える修行として、役に立たないからである。 私は、これらの目的にかない、役に立つことを、確かなものとして説く。 それは、生きることは苦しみを伴う。苦しみには原因がある。苦しみは消すことができる。そのための道(方法)があるということ──四聖諦──である。──弟子マルンキャプッタへの教え マッジマ・ニカーヤ
人は自らの体験に優れた成果を見て、それ以外の者たちを劣ったものと見なす。 それこそが、苦しみを生む執着であると、賢者は悟る(理解する)。 自分と他人を較べて「等しい」とも、「劣っている」とも、「優れている」とも考えてはならない(それらは新たな苦しみを生むからである)。──スッタニパータ〈最上なる思考について〉の節
〝正しい生き方〟とは、たとえば、 ①反応せずに、正しく理解すること──仏教では、これを〝正見〟と表現します。 ②三毒などの悪い反応を浄化すること(心をきれいに保つこと)──伝統的には、〝清浄行〟と呼ばれます。 ③人々・生命の幸せを願うこと──慈・悲・喜・捨の心で向き合うことです。 こうした生き方は、宗教としての「仏教」を超えています。この世界に生きるすべての人間にとって、かけがえのない心がけ、普遍的な正しい生き方なのです。信じる必要はない。すがりつくことでもない。「つい反応してしまう自分」の一歩手前に置くべき「心の土台」、よりどころなのです。 人は心に〝よりどころ〟を持つことで、はじめて、さまよえる人生を抜け出せます。 河の中にあって足場を得なければ、人は流されてしまう。 足場を得てそこに立てば、もはや流されることがない。──長者スダッタの園にて サンユッタ・ニカーヤ
ブッダが教えるのは、現実を「変える」ことではありません。「闘う」ことでもありません。現実は続く。人生は続いていく。そうした日々の中にあって、せめて自分の中に苦しみを増やさない、「納得できる」生き方をしよう──そう考えるのです。 私たちに必要なのは、自分が「最高の納得」にたどり着くための、正しい生き方、考え方、心の使い方です。 それは、現実の世界に、この人生に、「どう向き合えばいいか?」という内面的なテーマです。その主体的な問いに立ったとき、現実を超えてゆく生き方が可能になるのです。 私は正しく思考しなかったから、自らを飾り、いつも動揺して、ふらふらとさまよい、欲望に翻弄されていた。 ブッダの巧みな導きにより、私は正しく実践し、求めてさまよう人生をようやく抜け出した。──仏弟子ナンダの告白 テーラガーター
方向性として「あってはならない」ものが、相手と苦しめ合うこと、憎しみ合うことです。そのような関係は、人生の目的にはなりませんよね。
人はときどき、苦しめ合う関係を、ずっと繰り返すことがあります。関わることの目的を確かめようともせずに、ただ自分の期待、思惑、都合、要求、過去へのこだわりに執着して、「正しいのは自分で、間違っているのは相手」と、いつまでも思いつづけるのです。
ここでも、ブッダが語った、「執着こそが苦しみを生んでいる」という理解に戻るべきです。ただ言葉で理解するのではありません。実感として、「苦しめ合っている」という事実に目を醒ますのです。そして、こう考え直してください。
苦しめ合うために、関わっているのではない。
理解し合うために、お互いの幸せのために、関わっているのだ。
位置No. 1201
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