生きのびるための運動
生きのびるという言葉についての随筆Narthaki.icon
灰色はメンバーのコメント
生きのびるための○○という書籍がよく私の目を惹く。
『生きのびるためのデザイン』 Victor Papanek
『生きのびるための建築』 石山修武
『生き延びるためのラカン』 斎藤環
『生き延びるための思想』 上野千鶴子
『生きのびるための事務』 坂口恭平 etc...
「生きのびるための」という文言に抱くイメージは、道具主義的、実務的、戦略的あるいは戦術的。あっけらかんとしているようで、がむしゃらなような。定まらないが、以下の2つではないと思う。
生きのびるとは何ではないか
・抽象的な希望や理想を掲げて生を宣言することではない。
nagasena.icon ♫『上を向いて歩こう』は抽象的な希望?「♫幸せは雲の上に 幸せは空の上に」ってだよ。こんなことプロパガンダで宣言されたらぶん殴りたくなるけど、でも九ちゃんが歌うと、抽象的な希望だとしても具体的な希望に聴こえてくるなあ。
Narthaki.icon後述するが、上を向いて歩くこと自体はまだ希望ではないと考えている。「幸せ」は遠く眺められる位置にあり、それをまなざし続ける行為によって希望を自らに作り出すのだと扇動している。
・死への恐怖を靄で包み見えないようにすることではない。
先日、坂口恭平氏が15年間続けてきた、「いのっちの電話」をやめることを発表した。理由については彼のnoteを参照されたい。様々なジェンダー観や規範が輻輳しており手に余るので件の善悪については言及を避けるが、彼のヒロイズムはもはやそれ自体が駆け込み寺として機能していたのではないかという点で、私は彼の決断を悲しいと感じた。同時にとても皮肉に思えた。"私は今後、知らない方に対する人助け自体、自分に禁じるつもりです。"という言葉のやるせなさが私の中に低く響いている。 彼は建築家である石山修武氏の教え子であり、自らも建物を建てはしないが建築家を名乗っている。『生きのびるための事務』では、事務を単にめんどくさい手続きではなく人生を理想に近づけるための楽しい計画的作業であると論じた。顧みられないものに目を向け主眼に据えるアプローチは石山修武氏の建築のプロセスに似ている。彼は通常の用途とは全く異なる文脈への素材の転用、自給自足の論理、建築基準法の適用の外部に立つことで建築界の文脈から意図的に孤立を測った。もっとも彼の言及は小手先の技術よりも建築という思考法やそれを何十年も継続していく方法についての現実的な態度が主であり、個人がどのように名作を残し得るか、という意味で「生きのびる」を用いている。坂口恭平氏がそれを引き継いで著書に用いたことは、生活に必要な手続き「事務」に向き合うことも、「建築」的思索を深めることも、生において同じだけの価値をもつことを象徴している。
私はラカンやフロイトの夢想的で断定的な言説が到底真実であるとは受け付けず、実学からほど遠いものと思っている節があるが、消耗しがちな時代で不快な事象に対してどのように決めつけ、折り合いをつけるかというマインドセットと解釈すれば、役に立つ道具ではあるのだと思う。斎藤環氏の著書『イルカと否定神学』では、精神分析の批判を背景に否定神学を方法論化した〈オープンダイアローグ〉という対話手法が書かれていた。直接的には定義不能なものをとりあえず中心に据え、根源の追求に傾倒しすぎず否定を用いて周縁を組み立て始める。これはまさに、内ではなく前へ、生の方向を向くための哲学とも呼ぶべき思想として胸に刻まれている。
建築家原広司氏の「建築に何が可能か?」という問いは否定神学的であり、生きのびるための方法についての視座と読むことができる。「建築とは何か」を問うものとは一線を画し、非ず非ずの論理を用いて様相を浮かび上がらせるという思考法には、プラグマティックでありながら神秘主義を捨てない、開けた明るさを覚える。 nagasena.iconラカンやフロイトを受け付けていないのに、なぜ彼らの中心的なロジックである否定神学についてはいいのか?まさに文字通り、それは実学ではなく「神学」のロジック。「定義不能なものを中心に据える」ことは「内」側への吸引力、ブラックホールのことでは?(ラカンの現実界という空虚の中心を、欲望である私たちの世界(象徴界)がぐるぐるドーナッツのように回ってる。)ここに、生の方向を向く契機はあるのかしらん。否定ではなくやはり肯定すべきなのでは。「具体的な希望を掲げて生を宣言」すればいいのでは。「椅子をつくり続けたい」「水を運び続けたい」「戯言を書きつづけたい」。素朴かな。でも素朴にやってきたのが<やる>じゃないの。もしくは斎藤さんの<オープンダイアローグ>というものが、うまく否定神学の罠をカンコツダッタイしてるってことなのかな。
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>ラカンやフロイトを受け付けていないのに、なぜ彼らの中心的なロジックである否定神学についてはいいのか?
無意識や欠如といった「ある自明な集合に対しての補集合」を作り出し、それらを用いてエディプス・コンプレックスのような無敵の論理を展開する姿勢には、権威と恣意性を感じてしまう。反証のための武器を取り上げて吸い込もうとしているような。
>定義不能なものを中心に据える」ことは「内」側への吸引力、ブラックホールのことでは?
たしかにこのままではブラックホールだ。しかし、求心性があるのは地球に働く重力も同じだ。中心への力があり、力を受けた状態でも他方向には自由に動ける広大な平面。この違いは神学と実学に対応している。
>斎藤さんの<オープンダイアローグ>というものが、うまく否定神学の罠をカンコツダッタイしてるってことなのかな。
オープンダイアローグ(対話実践)は、否定神学の執着的な求心性から、推進力やアプローチの多様さだけを取り出し、絶対的かつ不明瞭なもの(原因とみえるものが複数重なっている精神病など)に対する様々な立場からの向き合い方へと換骨奪胎している。原因究明に重きを置かない、診断を避ける、病名をつけない、といった具合に。その際、ある一つの場を用意する。患者、医者、家族、関係者全員が同じ場で話し合う。患者のいない場で患者の話はしない。このようにして透明性を担保し不安の解消、全員で具体的な認識を共有し、快方へ向かう。これが否定神学を実学、臨床に持ち込んだ事例だ。誰もが浮遊せず、地に足がついて始めて、生の方向を向きはじめるようになるのではないか。
>「具体的な希望を掲げて生を宣言」すればいいのでは。
「椅子をつくり続けたい」「水を運び続けたい」「戯言を書きつづけたい」「上を向いて歩きたい」、これは具体的な希望というより、具体的な平面だ。何時間?誰と?どんな風に?とただ動き回ることのできる素朴でポリフォニックな平面。発案時点ではその予感はあれど、それは遂行・観測されて始めて希望になる可能性をもつ。それを実行していく営みは、他者への宣言というよりも自己の変容に近いと思う。
『生きのびるためのデザイン』は、大学生時代に読み、当時あまりにも辛辣な言説に賛同出来ず、人に貸したきり返却を拒んでしまった。Papanek のいうデザインは機能複合体という考え方に従属しており、その攻撃の的はキッチュへ向けられていたので、パチンコ屋やラブホテルの外装の空虚さを思えばそれ自体は説得力があった。しかし彼は人は誰しもがデザイナーであるとしながら、ニーズとデザインの対応関係が正しければ善でありずれていれば悪か無駄であると論じたため、彼の理想のデザインのみがはびこる全体主義的な世界の退屈さと恐ろしさを空想し、強烈に反感を覚えた。継承、遊び、誤用、転用、コラージュなど、機能複合体のうち連想や美学の一部として許容すべきものを、なぜか非合理と批判する彼は、アドルフ・ロースの「装飾は罪である。」の規範的排除を内面化していたのかもしれない。いずれにせよ機能主義の倫理的な暴力性への忌避はぬぐえない。ここでの「生きのびるための」の主語は彼のフレームの中の生に限定され、それを外部から合理的に決定する立場に立っている。この点が原広司や石山修武と異なるのが興味深い。『生きのびるためのデザイン』が現代日本とは似て非なる倫理観に依るものであることにも留意したい。「生きのびるための」とは社会背景により変形し、単なる生命維持とは異なる社会運動の性質を持っているのだと理解する。 nagasena.icon「生きのびるための」という文言は、それこそPapanekの「生きのびるためのデザイン」の原書タイトルが"Design for the Real World: Human Ecology and Social Change"のように、日本の出版社によって、そうタイトル付けすることによって売れるからであって、著者とはほとんど関係がないようにおもえる。(たいてい、この手の書籍のタイトルというものはよっぽど著者ではなく出版社の編集がつけるものだろうね…)ま、些末なことです。だけどその文言を使うとき、そういう「出版社」というある種の「権力」によって生み出された言葉であることは、脳裏によぎらせておく。(なぜ著者が、自分の本のタイトルすら決めることができないのだろう?なぜ勝手に自分の本に知らない著名人のコメントが記載された帯を回されるのだろう?)
Narthaki.icon(´;ω;`) 奇しくもこの本では市場原理や需要のためのデザインに痛烈な批判を浴びせている...
https://gyazo.com/402db9d3f45c883719b5df1d75dd642e
以上を踏まえ、始めの否定文の応答として
・社会的権力や規範、差別などの何らかの強大な外圧に対して、自分やその手の及ぶ範囲を変容・回復し続けることで自らの存在を維持する運動。
・死や停滞、破滅への道を直視して否定し続け、つねに生の方向に向き直る運動。
これらを、ひとまず「生きのびるための」運動と呼んでみる。
nagasena.icon生き延びるゾ!