能動と受動の対立
萱野 稔人はミシェル・フーコーの言う暴力を解説して、「暴力は、相手の身体にそなわっている力能を物理的に上まわる力によって、その身体を特定の状態(監禁、苦痛、死...)に置くように作用する」と述べている。権力が相手の行為に働きかけて、相手に行為させるのに対し、暴力は相手の身体に働きかけて、相手を特定の状態に置く。つまり、"権力は相手の行為する力を利用する"が、"暴力は行為する力そのものを抑え込む”。 暴力関係において、暴力を振るう者は能動的な立場にいて、暴力を振るわれる者は受動的な立場にいる。暴力の行使が成功した場合、相手は完全に受動的な状況に置かれる。その意味で、暴力関係は能動と受動の対立のなかにある。 ここで注意しなければならないのは、権力関係において権力を行使"される"側にいる者は、"ある意味で能動的"だということである。権力を行使”される”側は行為"する”のであるから。「権力の関係においては、行為者にたしょうなりとも「能動性」が残されている」
では、「される」のに「する、「する」のに「される」の状態にある行為はどう形容されるべきか?
p148
便所掃除を例に考えてみよう。嫌がる相手に便所掃除をさせるためにはどうすればよいだろうか?
たとえば、相手の手にブラシをもたせ、その手をつかんで動かすといったやり方が想像できる。たしかにそうすれば相手に便所掃除をさせることができる。
しかし、そうやって"相手の自由を奪えば”、その結果として産出されるのは、何らかの行為でゃなく、単なる身体の受動的な状態である。すなわち、相手に便所掃除をさせたいのに、事実上、自分が便所掃除をするはめに陥ってしまうのである。
相手に便所掃除をさえるためには、相手が、ある程度自由であり、ある意味で「能動的」でなければならない。権力はそのような条件を利用できてはじめて、相手に便所掃除をさせることができる。 たとえば、「便所掃除をしなければおやつをあげない」といって相手に便所掃除をさせることができたならば、これは"権力による行為の産出"である。そのとき、権力行使の対象となっている人間は、ある程度自由であり、またある程度の「能動性」を残されている。おとなしく言うことを聞くか、この酷いやり方に抗議するか、そうした可能性のなかで行為しうる「能動性」である。
武器で脅して便所掃除させるのは、武器が出てきているため一見したところ暴力の行使のように思われるかもしれない。しかし、そうでhない。[萱野が明確に述べている通り、これは権力の行使とみなされなければならない。武器はこの場合、"行使可能性に留まっている"からだ。相手には、おとなしく服従するか、相手の暴力に対峙するか、それとも逃げ出すか、そうした可能性のなかで行為しうる「能動性」がのこされている。
暴力は相手を受動性のもとに置くのだった。暴力を振るう側は「する」立場にいて能動的であり、暴力を振るわれる側は「される」立場にいて受動的である。では、権力行使に見出されたある種の「能動性」は、この暴力行使における能動性と同じものであろうか?
両者が異なっていることは明白である。
最近、”社員”を”自発的”に働かせたいというツイートを目にするが、どこか違和感を感じている。
p158
アーレントはカツアゲを解説するにあたり「自発性の概念」のみに言及していたが、実はここではもう一つ別の概念が問題になっていたのだ。それが「同意の概念」である。つまり、カツアゲされた人物がお金をポケットから取り出して手渡す行為は次のように説明すればよかったのである。たしかにこの事例における私の行為には自発性は存在しないが、しかし、同意は存在する、と。
しかし、”強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している”、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。
非自発的同意を行為の類型から排除することは、単に行為の記述として不十分なだけではない。それは看過できない重大な帰結を招き寄せる。 非自発的同意を行為の一類型として認めないならば、ある同意に関して、「同意したのだから自発的であったのだ」と見なされてしまう可能性が出てくる。”道具等々を用いた強い強制力が働いていなくても”、人は何らかの理由から、”疑惑を感じているのに同意してしまう”場合がある。つまり、暴力によって「あらゆる可能性を閉ざ」されているわけではないが、かといって自発的でもない、にもかかわらず同意してしまうことがありうる。(ハラスメントにおいてはこうしたケースが問題になる)。