中動態の世界
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「する」と「される」――能動と受動の世界をあたりまえに生きている私たち。しかし、歴史をみれば、「する/される」では語ることのできない「中動態」というものがあったのです。
中動態って何? それは能動と受動の中間なのか? そして、なぜ消えてしまったのか?……「する/される」の外側――中動態の世界に関するさまざま問いをスリリングにひも解いていく『中動態の世界』(医学書院)が大きな話題となっています。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348
p147
萱野 稔人はミシェル・フーコーの言う暴力を解説して、「暴力は、相手の身体にそなわっている力能を物理的に上まわる力によって、その身体を特定の状態(監禁、苦痛、死...)に置くように作用する」と述べている。権力が相手の行為に働きかけて、相手に行為させるのに対し、暴力は相手の身体に働きかけて、相手を特定の状態に置く。つまり、"権力は相手の行為する力を利用する"が、"暴力は行為する力そのものを抑え込む”。
暴力関係において、暴力を振るう者は能動的な立場にいて、暴力を振るわれる者は受動的な立場にいる。暴力の行使が成功した場合、相手は完全に受動的な状況に置かれる。その意味で、暴力関係は能動と受動の対立のなかにある。
ここで注意しなければならないのは、権力関係において権力を行使"される"側にいる者は、"ある意味で能動的"だということである。権力を行使”される”側は行為"する”のであるから。「権力の関係においては、行為者にたしょうなりとも「能動性」が残されている」
では、「される」のに「する、「する」のに「される」の状態にある行為はどう形容されるべきか?
p148
便所掃除を例に考えてみよう。嫌がる相手に便所掃除をさせるためにはどうすればよいだろうか?
たとえば、相手の手にブラシをもたせ、その手をつかんで動かすといったやり方が想像できる。たしかにそうすれば相手に便所掃除をさせることができる。
しかし、そうやって"相手の自由を奪えば”、その結果として産出されるのは、何らかの行為でゃなく、単なる身体の受動的な状態である。すなわち、相手に便所掃除をさせたいのに、事実上、自分が便所掃除をするはめに陥ってしまうのである。
相手に便所掃除をさえるためには、相手が、ある程度自由であり、ある意味で「能動的」でなければならない。権力はそのような条件を利用できてはじめて、相手に便所掃除をさせることができる。
たとえば、「便所掃除をしなければおやつをあげない」といって相手に便所掃除をさせることができたならば、これは"権力による行為の産出"である。そのとき、権力行使の対象となっている人間は、ある程度自由であり、またある程度の「能動性」を残されている。おとなしく言うことを聞くか、この酷いやり方に抗議するか、そうした可能性のなかで行為しうる「能動性」である。
武器で脅して便所掃除させるのは、武器が出てきているため一見したところ暴力の行使のように思われるかもしれない。しかし、そうではない。[萱野が明確に述べている通り、これは権力の行使とみなされなければならない。武器はこの場合、"行使可能性に留まっている"からだ。相手には、おとなしく服従するか、相手の暴力に対峙するか、それとも逃げ出すか、そうした可能性のなかで行為しうる「能動性」がのこされている。
それに対し暴力は「あらゆる可能性を閉ざす」のだった。つまり、先ほどあげた、相手の手にブラシを持たせ、その手をつかんで動かすという事例こそは暴力行使の事例である。この事例では力が直接に身体に働きかけており、その身体には、手を強制的に動かされる以外の可能性は閉ざされている。
こう考えると、暴力には大きな限界があることが分かる。暴力は相手の身体を押さえ込み、受動性の極に置く。したがって、そこからは行為を引き出すことができない。言い換えれば 、「暴力の行使それ自体によっては服従を獲得できない」。服従を獲得するためには、暴力は行使可能性のうちに留まっていなければならない。
フーコーは「権力のあるところには抵抗がある」と述べているが、これは抵抗の可能性が減少するとともに、行為を規定しつつ産出するという権力の効力も減少してしまうことを意味する。抵抗できないほどに衰弱している相手には、便所掃除をさせることもできない。
p151
権力の関係は、能動性と受動性の対立によってではなく、能動性と中動性の対立によって定義するのが正しい。すなわち、行為者が行為の座になっているか否かで定義するのである。
権力を行使する者は権力によって相手に行為させるのだから、行為のプロセスの外にいる。これは"中動性に対立する意味での”能動性に該当する。権力によって行為させられる側は、行為のプロセスの内にいるのだから中動的である。
> 武器で脅されて便所掃除させられている者は、それを進んですると同時にイヤイヤさせられてもいる。すなわち、単に行為のプロセスのなかにいる。能動性と中動性の対立で説明すればこれは簡単に説明できることである。能動と受動の対立、「する」と「される」の対立でこれを説明しようとするからうまくいかないのだ。
p156
ハンナ・アーレントは武器のような道具を用いなければ得られない同意は同意ではないと考えている。それは強制された同意であって、自発的な同意ではない、と。これはつまりアーレントが、”強制か自発か”という視点で行為を捉えていることを意味する。
しかし、実際の行為は強制か自発かでは割りきれるものではない。フーコーの描き出す権力関係kら見えてきたのは、まさしく、”強制とも自発とも言えない行為”の姿であった。
「昼職にはラーメンを食べたいが、友達が蕎麦にしようというので”仕方なく”蕎麦にする」。
「給料が欲しいので”仕方なく”働く」。
「銃身を突きつけられたなので”仕方なく”便所掃除をする」。
p158
アーレントはカツアゲを解説するにあたり「自発性の概念」のみに言及していたが、実はここではもう一つ別の概念が問題になっていたのだ。それが「同意の概念」である。つまり、カツアゲされた人物がお金をポケットから取り出して手渡す行為は次のように説明すればよかったのである。たしかにこの事例における私の行為には自発性は存在しないが、しかし、同意は存在する、と。
非自発的同意
p159
この本のすごいところは、古典とか参照しながら理路整然と書かれてるかと思いきや、感覚的な話や推測が根底にあって、「症候(抑圧されているものが緩まったときに時として現れてくるみたいなやつ)」って言葉がありましたが、感性が鋭い人とかは生活している中でモヤモヤがあってそのモヤモヤに対して一つの答えを出しているところかな、とかぼんやり考えてました
言語って、人間の本来の流動的な感性にカッチリと線を引いて区画しちゃうから、感性が鋭い人は「そうじゃないんだよなあ」ってことがしばしば起こるんでしょうねーkiyopikko.icon
わかります。鍛える、鍛えられるもモヤモヤから始まっているのでyo3.icon
おそらく、そういう言い方しなくても良くない??って僕は度々思っちゃう人間なんですよね。「お前のことを鍛えてやったんだ!」みたいなことに(堂々と言う人は最近珍しいですが、暗に言う人はまあ、いる)モヤモヤしてしまう。
ぼくは組織の問題についても考えるけど、違う側面でみれば関係性・ネットワークの問題だとおもうんですよね。後者は数理的だから、現代ではよく語られるけど、ぼくとしては前者、文学の世界から組織について考えたいなというおもいがあります。