仏教哲学
概要
本当は、ビジネスを語ることと、仏教哲学を考えることは、イコールだと思っている
JJのなかで、どこまでを語れるか、語るべきか、語るのかはわからないけれど
JJの文脈にふさわしいことを、書けたらいいなと思っている
なぜ、ビジネス≒仏教哲学なのか?
どちらも、人間が生きるための営みを扱うから
どちらも、知識を扱うから
どちらも、確立と腐敗の歴史だから
どちらも、真実はとても簡単だから
どちらも、それを語ることを商売にしようとすると、とたんに小賢しくなるから
そもそもの始まりは、どこにあるのか?
移ろうものを、惜しむ、人の心が生まれたときに、全てが始まったのだと思う
不変のもの、繰り返すもの、構造的なもの、に、ある時、人類は気づいた
一日の循環のなかで、あるいは一年の循環のなかで
特定の原理原則を発見し、構造を見抜くと、生産性が高まることに気づいた
人類以外の動物は、遺伝子レベルでそこに対応しているが
人類だけ、なぜか、大脳でそこに気づいた
つまり、知識を扱う知能を獲得した
最初は知識は、音声でのみ伝えられたが、ある時、文字を発明した
情報の本質とは、永遠不変であること
永遠不変の本質や構造を発見すると、それはHackすることができる
Hackとは、自動化であり、生産システムの構築である
つまり、イノベーションである
それにより、身体的な欲求を飛躍的に満たすことが可能となる
構造が、原初的な意味における幸福をもたらしてくれた
初期人類にとっては、おそらく、変わらないもの、が、生きる上でのよすがであり、福音だった
初期人類の知性が都市と農耕を生み出したのは必然であった
しかしそこで問題が発生する
荒ぶる自然は、決して不変ではない
人類が生み出す安定的な生産システムは、短期的には増産と人口増加ももたらすが
気候変動を始めとする外乱に直面すると、より大きな災厄、飢餓を引き起こす
野生のままでいれば、気候変動、地殻変動などの諸々の事象に柔らかく対応できるが
永遠不変を目指す人工的な生産システムは、そうではない
人類は、変動を経験すると、それに耐えられるように再デザインする
しかし、それを上回る災害もまた起きる
地球と人類の永遠のイタチゴッコが始まったのである
それが、メソポタミアや黄河文明のはじまりの風景だったのだと思われる
ブッダは、紀元前500年前の人だと言われている
ちなみに、メソポタミア文明は紀元前4000年ほども前のこと
ごく素朴な都市、農耕が、一定の成熟を遂げた頃のことである
ブッダは、文明が、身体に必ずしも幸福をもたらさない、と考えた
永遠不変の生産システムは、身体的欲求を満たしはするが、幸福にはしてくれない
おそらく、そのことに気づいた最初の人類の一人だった
だから、「変わっていくのが当たり前なんだよ」と教えた
それはおそらく、驚くべき発想の転換であった
これもまたイノベーションである
というか、アンチ・イノベーション、というほうが適切なのかもしれないけれど
法句経は、おそらく、ブッダの言葉が、できるだけそのままに近いかたちで残された仏典だと思われる
とても簡単な言葉で、教えが説かれている
そこでは、繰り返し、変わることを受け入れよと説かれている
そして、身体の欲求を上手に抑えなさい、と説かれている
あらゆる苦しみを生み出すのは、身体の欲求を暴走させる「心」のしわざだと、看破している
ブッダ以後、起きたこと
これは本当に素晴らしい教えだと心打たれた人たちがいた
弟子がそうであり、ときの為政者もまたブッダの教えに感激した
これを広めたら、人類みな幸福だと考えた
効率的に教えるためには、経典と学校が必要だと考えた
そしてブッダの教えが制度化されていった
制度化された結果、腐敗が生じた
われこそは最もブッダの教えがよくわかっている、という争い
そちらの解釈とは相容れない、という喧嘩
職業的な教師の道に進めば、収入が安定する、というキャリアプランニング
プリミティブな原宗教や神話、伝説との複雑玄妙な融合
その後は、腐敗を一掃し、仏教を再興させる中興の祖たちの系譜
ナーガールジュナ
天台智顗
達磨大師
慧能
法然、親鸞
一休、蓮如
白隠、良寛
南方熊楠
鈴木大拙、井筒俊彦
河合隼雄、中沢新一
養老孟司
再興のたびに、経典はバージョンアップされていった
言ってしまえば、経典とは「おれの思う、最高のお釈迦様の解釈」みたいなもの
その一番複雑で完成度が高いのが法華経であり、華厳経であり
言語化、理論化された体系としては、まばゆいばかりの完成度
でも、「悟り」なんてものはとても身体的な現象だから
お経なんて、ある意味、いくら読んでも屁の突っ張りにもならない
たぶん、お釈迦様が後の世の仏典を読むと、きっと「お釈迦様もビックリ」だと思う
そうはいっても
やっぱり、何もなしの独学だと、どう考えても難しすぎるから、必要といえば必要だし
人は、なんだかありがたそうなものをありがたるから、小難しそうな演出も、必要といえば必要だし
また、そういう世界だと、言語操作に長けた優等生タイプが幅を利かせがちで、みんな何かを書きたがる
そういうわけだから、仏典は、複雑化するように宿命付けられている
ちなみに
法句経は、あんまり簡単に述べるものだから、仏教学会からは随分軽んじられていたそう
そういうところは、アカデミズムの良くないところ
こういう歴史や構造を俯瞰していくと、見えてくるものがある
私達の暮らしに身近にある、学校や会社組織も、実に似たようなところがある
大事なのは、「本当のところ」を、直観として、つかむだけ
つかむための契機として、先人の経験談や理論、お手本はとても有用なのは確かだが
あくまでそれは補助的なものであり、最後は、自分でやってみるしかない
自転車の乗り方を、いくら読んでも、いくら映像で見ても、乗れるようにはならないように
いろんな仏典やその解説書に触れていくと、全てに共通する、静かなメッセージに気づく
力をつけよう、つけよう、としても、なにも身につきませんよ
すでにそれが、あることに気づきなさい
それを、善いことのために行使しなさい
つまりは単純に、そういう話
そんな単純な話
最後に、法句経の「感興のことば」(中村元 訳)から、引用
もしも一切の安楽を受けようと欲するならば、一切の愛欲を捨てねばならぬ。一切の愛欲を捨てた人は、実り窮まり無い楽しみを受けて、栄えるであろう。
諸の欲望にしたがっているあいだは、心が満足を得ることが無かった。しかし欲望から退き休止することを反省して見て、明らかな智慧によってよく満足した人々は、実に満足しているのである。
たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。賢者は、「欲望は快楽の味が短い」と知って、たとい天上の快楽にもこころが喜ばない。正しく覚った人(仏)の弟子はつねに妄執の消滅を喜ぶ。
たといヒマーラヤ山にひとしい黄金の山があったとしても、その富も一人の人を満足させるのに足りない。このことを知って、平らかな心で行うべきである。