読みがあっているかどうかを誰が判定できるのか
書いといて何だが誰なら判定できるんだこれcFQ2f7LRuLYP.icon
誰なら判定できるのかという問いは良さそう久住哲.icon
ソクラテス:だったら君、多くの人たちが僕たちについて言うことなど、尊重してはいけないだろう。むしろ、善悪の基準についてよく知っている人たちがなんと言うか、それこそが真実だろう。だから、君の忠告は間違っているんだよ。正しいこととそうでないこと、善いことと悪いこと、立派なこととそうでないことについて、大衆の言うことを考慮すべきじゃないんだ。
ここでは「善悪の基準についてよく知っている人たち」の存在が前提とされており、すなわち、その人たちなら判定できると想定されていることだろう久住哲.icon
こう書いたとき、「で、マクダウェルはどう言ってたの?」と問われても、「えーっと〜……」となってしまうんだよなあ久住哲.icon
その人にアクセスできない場合には、誰も判定できない基素.icon
これは仕方がないことだ……とする立場がありえる
例えば、『マクダウェルの倫理学』(p27)では、マクダウェルが「いかなる行為が道徳的に正しいのかは、有徳な人ならばどう振る舞うだろうか、という以外の形ではつきとめることができない」という見方をとっていると紹介される こういった立場は、「普通」はありえないと思われがちだと思う久住哲.icon
物事(ここでは道徳)をよく知っている人がいなくても、「客観的」な基準に照らせばどんな人であれどどんな行為が道徳的に正しいかを評価することができるはずだと考えるか、あるいは、そもそも道徳には「客観的」な基準なんてないので、個々人がどう思うかに尽きるのだ……と考えるか、いずれかになりがち