桐の葉も踏み分けがたくなりにけりかならず人を待つとなけれど
詞書
百首歌たてまつりし、秋歌(新古今集)
作者
本歌
語釈
桐の葉も踏み分けがたくなりにけり
注釈では青桐のことだという。
青桐、アブラギリ、赤桐、梧桐など、現代で区別されている木々を総称して桐といっていたらしい。
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平安時代ではこの花を愛でたり、琴に使ったらしい。
桐の木の花、紫に咲きたるは、なほをかしきに、葉のひろごりざまぞうたてこちたけれど、こと木どもとひとしう言ふべきにもあらず。唐土に名つきたる鳥の、選りてこれにのみゐるらむ、いみじう心ことなり。まいて琴に作りて、さまざまなる音の出で来るなどは、をかしなど、世の常に言ふべくやはある。いみじうこそめでたけれ。
日本国語大辞典、桐の語誌
(1)「万葉‐五・八一〇」の題詞に「梧桐日本琴一面」とあるので、(1)は奈良時代以前に渡来して栽培され、琴材などに用いられていたらしい。ただし、これがアオギリ(梧桐)なのか、キリ(白桐)なのかは不明。
(2)鳳凰がこの木に住むといわれ、桐と鳳凰のとり合わせが古くからよく見られる。これは「詩経‐大雅・巻阿」の「鳳皇鳴矣、于彼高岡、梧桐生矣」による。
(3)中国文化の影響で日本漢詩には早くから用いられ、葉を秋の景物として詠む。和歌に詠まれるようになるのは「新古今集」のころで、庭に散り敷いた落ち葉に霰や村雨が降り注ぐという様子を詠んだ歌が多い。花については挙例の「枕草子」が言及しているが、歌材とはならず、近世の俳諧になって四月の部に取り上げられる。 この式子内親王の歌もその例だといえる。
ふみわけがたくなりにけり
$ 秋庭不_レ掃携_二藤杖_一
(秋の庭 掃はず藤杖を携へて)
$ 閑踏_二梧桐黄葉_一行
(閑(しづ)かに梧桐の黄葉(こうよう)を踏んで行(あり)く
秋の庭は、散り敷いた木の葉も掃き清めていない。その晩秋の殺風景な庭に、藤の杖をたずさえて出てみた。静かに青桐の黄葉を踏みしめながら歩いてみる。
『和漢朗詠集』・秋・落葉・三〇九・白居易。(読みくだし・訳は新編日本古典文学全集の和漢朗詠集より。)