単語の意味はどうやって決まるんだろう
from 2023/10/26
単語の意味はどうやって決まるんだろうSummer498.icon
分布仮説というのがあるのは知ってる
分散表現に繋がる
ぼんやりしている間は分布から決まるが、ある時に「カッチリ決めよう」と誰かが言い出して、定義付けが始まる
XX は~である
この定義文をどう解釈して分散表現と結びつければよいのだろう
その単語自体を使わずに分布をできるだけ近似したもの?yosider.icon
規範主義と記述主義というのを思い出したseibe.icon
規範主義と記述主義 (タナナことば研究室)
リンク切れ?yosider.icon
魚拓に貼り替えましたtakker.icon
いや魚拓じゃなくてもあったや
リンクミスかな
ちょっと待って!変なことが起きてる
元URLはhttp
しかしgoogle検索経由だとなぜかhttpsに変換される
当然そんなものはないので404 Not Foundになる
あれ?今google検索したら、chromeでもfirefoxでもちゃんとhttpのページに飛んだ……
13:13:51 だめだ。またchromeでhttpsに飛ばされるようになっちゃった
検索結果ページは強制的にhttpsに変換されるため、そこからジャンブすると404 Not Foundになる
ええ?httpと明記してもchromeでは強制的にhttpsに変換される?
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/tanana/2011/02/post_161.html
cFQ2f7LRuLYP.iconのスマホのchromeでもリンク切れcFQ2f7LRuLYP.icon
上のネストの[http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/tanana/2011/02/post_161.html 規範主義と記述主義 (タナナことば研究室)]も見えないcFQ2f7LRuLYP.icon
アドレスバーをhttpに書き換えてもだめですか?takker.icon
書き換えた後にReturnを押すと、httpsに書き換えられた状態でアクセスされたcFQ2f7LRuLYP.icon
そして見えない
ええ……takker.icon
でもさっきはchromeでもhttpで表示されたのに……
なにこれ?確率?
量子httpsSummer498.icon
自分はアドレスバーをhttpに書き換えれば見えたyosider.icon
記述主義:分布が変われば定義づけも変えよう
規範主義:分布を変えないようにしよう
排他的ではない?yosider.icon
「この単語の意味分かってる?」「すいません、そもそも『意味』ってなんスか?」
「わかる」とは何か…nishio.icon
それもだSummer498.icon
この単語の意味分かってる?とかいう哲学に対する挑戦的な問
何気なく発される哲学に対する挑戦的な問
「単語の意味が決まる」とはどういうことか?久住哲.icon
国語辞典に載ったらそれで決まり、という話ではないだろう
国語辞典に載らない「意味」はそこかしこで口に出されているcFQ2f7LRuLYP.icon
これはパロールを想定した
言葉の意味はそもそも「決まる」という状態にはなりえない説
より厳密に言うと、言葉の意味が「決まる」のは、特定の人々のあいだでその場で言葉の意味についての明確な取り決めがなされた場合に限られるのではないか
辞書だって、「これでいきましょう」と説明文の中身を決定するプロセスを経なければ発行できない。このような「決まる」はあるが、一般的に言葉の意味が「決まる」ことはないのではないか。
仮にそうだとした場合、我々が「言葉の意味が決まる」と言っているとき、我々は何のことを話しているのか?
ある「場」における示し合わせについて話しているように思うcFQ2f7LRuLYP.icon
それが家庭か、社会か、二人の間かなど色々な場がある
井戸端でも〇〇(誰かの名前)という形で「この人の使う言葉の意味」というのを決めたいする節がある
例えば、a=1と宣言して、アルファベットを数値として扱うこととかかな久住哲.icon
そうですねcFQ2f7LRuLYP.icon
「言葉の意味が決まる」の意味は、〈その言葉の或る使われ方が習慣化すること〉だという説
オルテガ・イ・ガセットは、言葉は慣習の集まりだと言っているらしい
これは納得しやすい久住哲.icon
「言語」も一つの壮大な慣習の体系である。われわれが特定の言語を使用して、意思を表明するとき、われわれの中でいかなることが起るか。われわれの意図とそのために行う発音との間には、われわれの理解可能なつながりは存在しない。つまり非合理である。言語は、その構造も、つまり文法や構文規則も、その語彙もすべて典型的な慣習である。その慣習に違反しても、とくに制裁はないように見える。社会的圧力は働かないようにも見える。しかし、そうではない。話しかける相手が理解してくれない。あるいはとんでもない誤解をするかも知れない。そのような状況は是非避けたいと思う。これこそ社会的強制、社会的圧力の形態以外の何ものでもない。つまり、「その社会の中で人々と異なる振舞を、不問に付されることなく選択出来ない限り、常に強制がある。」
色摩力夫『オルテガ 現代文明論の先駆者』(中公新書、p103)
これと対立するのがチョムスキーの生成文法かな?
仮にそうである場合、「さて、この単語のこの使われ方もようやく今日習慣化されましたね!🎉」と言うことはできるのだろうか?
なぜ我々は、人間とか犬とか言うのであろうか? それは我々の前の人が人間、犬と言ったからである。理由は時間の中にある。それは恣意性を排除しないが、また〔しかし〕恣意性を取り除くものである。(小松英輔『もう一人のソシュール』p100より孫引きされたソシュールの講義についての「コンスタンタンのノート」)
「犬」を「犬」と呼ぶのは「前の人が「犬」と呼んできたから」ということかcFQ2f7LRuLYP.icon
例えば、日本人に特殊な性質があり、犬を前にしたとき頭の中に"inu"という音が響き渡るような人種なのだとしたら、あるときから頭の中に"neko"という音がし始めた場合、「では、今後はネコと呼ぶことにしよう」と提案する理由がある。しかし、🐕を「イヌ」と呼ぶ[仕事の休憩おわった中断]
お仕事お疲れ様でございますcFQ2f7LRuLYP.icon
ことにはそのような理由はない。自分より歳上の父母や周囲の人が「イヌ」と呼んでいたから「イヌ」と呼ぶだけ。すなわち、🐕を「イヌ」と呼ぶ理由がないがゆえに、その呼称を変えることができない。
/arpla/概念や規範に関するポストモダン的な見方
前提 規則のパラドックス
規則のパラドックスが言っているのは、〈ある規則が特定の内容を持っていることを示す証拠は過去に1つも見つかりっこない〉ということだ。
言い換えれば、「言葉の意味が或る内容に決まっていたことを示す証拠はどんな過去にも1つも見つからない」ということで、これをもって、「言葉の意味が特定の形に決まっていると判明することはついぞない」ということになる。
これに対して、「うん、そうだよ。人は常にその場でその場で規則を作り出してるんだ!」と答えてしまうと、何が正しいのかについて語ることができなくなる
(という問題が生じる)
相対主義に陥る
ロバート・ブランダムは、合理化の物語として過去を振り返る(recollection)というアプローチで、規則のパラドックスがもたらす課題を乗り越える っぽい
ここらへんについて何か言うために今日ちょっと読んだもの
「ブランダムのヘーゲル」と規範の客観性 - 川瀬和也(宮崎公立大学) - 日本哲学会学協会シンポジウム@九州大学
ブランダムの『信頼の精神』の内容を紹介しつつ、内容を批判したりしている
まだよく分かっていないが、仮にこれが、合理化・物語化のうちでしか概念の内容が定まることはないという意味であるとしたら、この主張を受け入れるために、或る大きな前提を引き受けておくという用意が必要そうだ。(書き方曖昧でダメだな久住哲.icon)
上の発表原稿の4の部分で言われていたこと
ブランダムによれば、何かを主張したり、行為したりするという言説的実践が理解可能であるためには、「想起」による「赦し」のプロセス、つまり、他者の主張や行為を、なんらかの客観的な規範に従いつつそれを明示的にするものとして、合理的に再構成しつつ理解するプロセスが必要である。
ここの「想起」がrecollection
単語の意味はどうやって決まるんだろう#65478edccc1fc10000749420
個人にとっての意味は体験と結びついて決まりそう基素.icon
ギガが減るとか、なんとなく気持ち悪い言葉でも社会的に認知されると単語が定着する感覚Taisei117.icon
辞書的な意味とはズレてても便利だと使われる
一部で流行して広まると、ある程度の意味の範囲が限定されてくる
家庭内用語とかを観察するとミクロな現象がわかるかもinajob.icon
c.f. /childcare/家庭内用語