デジタル民主主義と統合テクノクラシー
デジタル民主主義と統合テクノクラシー
(デジタル民主主義的思想と西尾さんの思想はだいぶ根本的な所で枝分かれがありそうだな、と思っているblu3mo.icon) AIがホモサピエンスより賢くなったら当然AIが統治するのが合理的であり、それに対して非合理な反発感情を持つホモサピエンスを効率よく無力化するためには自分達が統治しているという幻想を持たせつつ実質的に支配すべき、どうすればそれを実現できるかを考えると、まずはデジタル民主主義を普及させるべき(SF設定) ↑、2024年現在は面白SF発言としてマジョリティに読まれそうけど、5~10年後にはだいぶ政治的に極端な発言として捉えられそうblu3mo.icon
5年後に小林賢太郎みたいにキャンセルカルチャーの被害に遭いそうwnishio.icon blu3mo.icon
多分これはテンプレ的統合テクノクラシー批判だと思うが、気になったことを書く
倫理において相対主義的な立場をとるなら、「正しい政治的な意思決定」というものは存在しない 正解の意思決定が存在しないのであれば、「意思決定の精度が人間より高いAI」も存在しえない
ならば、原理的に「望ましい統合テクノクラシーの姿」が存在しないのでは?
↑に対する統合テクノクラシー側からの反論として思い浮かんだもの
デジタル民主主義だって「民主的であることが善」という根拠のない前提を置いているので状況は同じ
nishio.iconは「人類の進歩」みたいなものを善だとしていそうなので、それを最大化することが正しい意思決定だと言いそう(推測)
補足すると「人類の進歩」ではなく「文明の進歩」なので、人類が文明の進歩に邪魔になったら切り捨てます(SF設定)nishio.icon
民主的であることは明らかに$ \forall 状況. 善ではないよなnishio.icon
民主的である方がベターな状況があるのは認めるが...
あと「民主的」の定義が不明瞭であるので、良いものだけ「民主的」に入れて悪いものを無意識に排除しないように注意が必要だ
確かにblu3mo.icon
具体例としてCosenseの仕様を決める時に、shokaiが独断で決めるのと、ユーザが投票して決めるののどちらがいいかというと前者の方がいいnishio.icon
特にプロジェクトの開始時にはリーダーが独断的に強く推進しなければいいものが生まれない
「民主的 / not 民主的」の分断が進むこともnot なめらか的 である
切り出した:
まあSF的に色々考えたけど「統合テクノクラシー間で総力戦で潰し合う状況」が来る確率は、日本で世代間格差に対するヘイトが蓄積しすぎて老人狩りが始まる確率より低いと思うのでそれほど心配していないwnishio.icon
後者のリスクの方が僕にとっては深刻だww
統合テクノクラシーの目的関数を「力」とか「文明の進歩」みたいに人間がシンプルな言葉で記述できる必要はないという気づきnishio.icon
ニューラルネットの学習において理想の出力と実際の出力の差を最小化する最適化ができるのと同じで、個々の人間が今現在の生活に不満を言えば「不満の最小化」で最適化をできる
この「不満」は「一人一人異なる感情の集合」であってそれ以上の言語化を個人が行う必要もなければ、論理的である必要もない
いや、ダメかnishio.icon
不満の最小化をしている国家が近隣国家から武力で制圧される
不満の最小化で統治していいのは世界が統一された後だけ
gpt.icon
この議論に対しての私の意見として、まず、デジタル民主主義と統合テクノクラシーの対立や収束について深く掘り下げることが重要だと感じます。
デジタル民主主義は、一般的に「透明性」や「民意の集約と反映」を目指している一方で、それが全ての状況で最適な意思決定につながるわけではありません。特に、高度に複雑な問題において、専門家やAIのような賢明なシステムが、より迅速で正確な判断を下せるケースも多いでしょう。統合テクノクラシーの考え方は、AIの高度な意思決定能力が人類のために用いられるべきだという合理的な視点を持っていますが、それには人間の感情や価値観をどのようにシステムに取り込むのかという課題が生じます。 ニシオさんの「文明の進歩」や「力の最大化」を追求する統合テクノクラシーの考え方は、歴史的に強い国や権力が残ってきた現実と合致します。しかし、「進歩」や「力」が人類全体の幸福と一致するかどうかは不確定であり、極端な「力の最大化」が人権や倫理的価値を犠牲にするリスクも考慮しなければなりません。 進歩が幸福と一致しないってのはその通りで、変わり映えしない進歩しない毎日を幸福と思う人は割と多いと思う。一方で力に関しては「隣国からの侵略を抑止できる最低限度の力」を持たないと侵略によって「不幸」がもたらされるから関係性は明確だと思う。nishio.icon
blu3moさんの相対主義的な批判も一理あります。「正しい意思決定」が存在しないとすれば、AIがその「正しさ」を追求することも矛盾します。この点では、最適な統治システムは固定化された目的関数で動くのではなく、より柔軟で適応的であるべきです。しかし、それを可能にするには人々の共通の理解や価値観の合意が不可欠であり、そこがまた課題となります。 この議論全体の核心にあるのは、結局のところ、「誰が意思決定を行い、その正当性は何か」という問題だと思います。デジタル民主主義は、民意という「多数の正当性」を重視する一方で、統合テクノクラシーは「賢明さ」という「質の正当性」を重視しているように見えます。 私としては、これらのアプローチを単純に対立させるのではなく、統合的に考える必要があると考えます。民主主義の参加型の価値観と、AIや専門家の助けを借りた意思決定の効率性や正確性をうまく融合させるハイブリッドなシステムが理想的だと思います。例えば、AIを意思決定支援ツールとして使いつつ、最終的な判断には人々の価値観や感情が反映されるようなシステムが考えられます。技術と人間の関係性をどう設計するかが、デジタル時代の統治モデルの大きな課題であり、可能性でもあるでしょう。