いつまでも写真を眺めているような午後には春は何をしている
久住哲.icon
口ずさむと気持ちいい短歌
午後には春はの「わ」の繰り返しや、「ている」の繰り返しや、
下の句だけで意味が成り立つ構成
上の句を全て使って「午後」を修飾子している
〈写真を眺める〉と〈春を気にする〉という2つの事象が重なりそうで重ならない微妙な関係性を持っているようにみえる
春という名前の人の写真を見ているわけでもない。「写真を眺める」は午後の直喩であり、実際に写真を眺めているという描写ではないからだ
だとすると、写真を眺めていながらも、その写真の中身とは違うこと(春)のことを考えている、ということになる
この、別々な方向の関心のベクトルが、ゆるいような緊張したような、微妙な気分を表現しているのだろう
春は何をしている(擬人法)
「春」が季節の春ならば、これは擬人法だということになる。
「春は何をしているの?早く来て!」という意味なら、この歌は冬の短歌だろうし、〈春のことを気にしている〉というよりも、春を急かすような意味になる。
だが、急かすという発語内行為と、いつまでも写真を眺めているという悠長かつぼんやりとした振る舞いは、ミスマッチに思われる久住哲.icon が、そう読んでもよさそう。
その場合、何をしているは、「まったく何してんだか。早く会いたいな」という風に読め、その場合、写真を眺めているときの気分はウキウキしたものだろう
このような、歌のなかに入り込んであれこれ探索できるような短歌が好きだ。例えば、久住哲.icon
「バスに乗る。夢ばかり見る。」なのか、「バスに乗る夢ばかり見る。」なのか。ここでストーリーは2又に分かれる。そういう「探索」ができる。
短歌が記されたり、読み上げられたりするのは、必ずしも、一意のメッセージを伝えるためではない。多義的でありえる。その多義性は、どこに句点を打つかの解釈可能性によっても規定される。
私は当時(2020年)、次のような物語によってこの短歌を読んだ:夢を何度も見過ぎてしまって、そのせいで夢のなかの付箋が1枚現実に飛び出てしまった。これは非現実的な理屈だ。夢を何度見たとしても、その頻度の激しさが、夢から現実への影響度合いを左右することはない。
が、当時の私は、この非現実的論理を、次の短歌にも見てとっていた
短歌で