「読書すると馬鹿になる」とショーペンハウアーが言ったか
読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆け巡る運動場にすぎない。読書をやめて、他人の思想が私たちの頭から離れていったら、いったい何が残るだろう。だからほとんど一日中、おそろしくたくさん本を読んでいると、何も考えずに暇つぶしができて骨休めにはなるが、自分の頭で考える能力がしだいに失われていく。いつも馬に乗っていると、しまいに自分の足で歩けなくなってしまうのと同じだ。 読書すると馬鹿になるなんていう説ははじめて聞いたかも 増井俊之.icon
マンガを読んでると馬鹿になる、みたいな感覚だったのかしらん
江戸時代の人やからなぁ
「読書すると馬鹿になる」なんて言ってないので藁人形論法nishio.icon 「ほとんど一日中、おそろしくたくさん本を読んでいる」をやると、自分の頭で考える時間がなくなるという話
「自分の頭で考える能力がしだいに失われていく」と「馬鹿になる」んじゃないんですか? 増井俊之.icon
「読書しすぎると馬鹿になる」を「読書すると馬鹿になる」と省略するのが問題てことですかね? そんな省略を許さないというのは話が厳密すぎて、雑談が成り立たないと思いますけど 増井俊之.icon
誰かが「青酸カリを飲むと死ぬ」と言ったとき、「ごく少量なら死なない」と言ってるようなものだと思う
逆です。たとえるなら「醤油を1リットル飲むと死ぬ」を「醤油を使うと死ぬ」に言い換える行為です。nishio.icon
(Schopenhauer): ほとんど一日中、おそろしくたくさん本を読んでいる -> 考える能力がしだいに失われていく
醤油を1リットル飲む -> 死ぬ
(masui): 読書する -> 馬鹿になる
醤油を使う -> 死ぬ
そこまで違和感を持たない要約だと感じたが、よく↑の議論を見ると確かに・・と思うこともあるinajob.icon
本を読まず上の切り抜きだけを見ているからかもしれない
ショーペンハウアーという人間に対する理解度の差かもnishio.icon
「マンガを読むとバカになると主張する江戸時代の人」みたいに表現するのには違和感がある
本人の著作もたくさんあるのだしその理屈だとこの人はマンガを描く側じゃん
例えばこの人はカント全集が作られる時に「純粋理性批判」は第一版がいいという主張をしたエピソードが残されてる
つまり第一版と第二版の両方を読んでどちらが良いかを論じられるくらい理解していたということ
そんな人が「読書しない0」と「読書する1」の間に境界を引いて「読書すると馬鹿になる」なんて主張したと考えるのはおかしな理解
「読書ばかり100%」をすると「考える0%」になるから問題だ、と主張したのだ
なるほど。理解が深まりましたinajob.icon
同じ事象を2人の人から違う切り口で説明してもらい、それらは互いに矛盾していないと観測しましたinajob.icon
一方の説明では、ミスリードするかもという指摘もまぁ、そうかもな、と理解したinajob.icon
相反する説明であればはっきりさせたいと思ったがそうではないし(そこまで興味もないので)そっと会話を終わらせたinajob.icon
確かに相反はしていなさそうですねtakker.icon